書籍『私が総理大臣ならこうする』レビュー

  • 2019.02.08 Friday
  • 20:43

 

 

私が総理大臣ならこうする 日本と世界の新世紀ビジョン』(大西つねき著, 2018)

 

 

目次 

第一章 現状認識

第二章 我々は何を間違え続けて来たか?

第三章 政府の借金を税金で返してはいけない

第四章 お金の本質について

第五章 私たちがすぐにやるべきこと

第六章 国家経営のあるべき姿

第七章 日本から世界を変えよう

第八章 土地を公有化する

第九章 世界の中の日本

第十章 日本の政治状況と取るべき戦略

 

 

 

以下はAmazonに私が投稿したレビューそのままですが、多くの人に読んでほしい本なので、ここにも掲載しておきます。

 

当然、インテグラル理論を学ぶような人には、この本の内容は「必須教養」でしょう。全ての内容に同意する必要はもちろんないですが、もし社会の未来を語ろうと言うのなら、この程度の基本的な論点は絶対に知っておく必要があると思われます。

 

 

 


 

shkd

★★★★★ 社会の未来を語るインテリは全員、この本と対決しなければならない

2019年1月14日 

 

近年、様々な論者が、日本(そして世界)の経済政策が根本的に間違った方向に進んでいることを指摘している。

例えば、右派系だと三橋貴明氏や藤井聡氏や安藤裕議員、左派系であれば松尾匡氏やブレイディみかこ氏や山本太郎議員、他にも山口薫氏や堤未果氏やのらねこま氏などの名を挙げられよう。もちろん、論者によって強調点や価値観や「本質への踏み込み度」は大きく異なるが、それでも、ズームアウトして遠めに眺めてみれば、その経済的主張に共通点は多い。

しかしそうした中でも、著者の大西つねき氏は群を抜いている。理由は多くあるが、本書の特長ともなっている点を挙げるなら、

1. 経済とお金の根本問題の分析が深く充実している(上記の論者にも見られるが、これほど本質的かつ多元的な説明ではない)
2. 国際金融の観点からの分析が深く充実している(上記の論者ではあまり強調されないが、絶対的に重要な論点である)
3. 思想や哲学が深く総合的である(国家経営とは何か、外面と内面に同時に配慮する知恵、我々の日常生活や様々なアクターへの細やかな視点)
4. 土地の問題と日米関係の問題にも踏み込んでいる(「部屋の中にいる象」「死の恐怖に負けて道を誤るな」)

そして何より、
5. 単なる分析ではなく提言として、そして行動を呼びかける書として執筆されている(著者自身が総理大臣になる覚悟をもっている)
ということである。

具体的にどんな提言がなされているのかは、実際に本書をひもといていただきたい。

もっとも、細かく見れば、必ずしも同意できない箇所もある。しかし結果としての意見には同意できなくても、その意見を生み出すまでの誠実な思考には共感できる。そして「私から見るとそれは最善ではないと感じるが、著者が誠実な思考によってこう考えているのも分かるから、極端に変な方向には進まないだろう」と思えるので、不思議なものである。こうした「知的誠実性」も、著者のもう1つの魅力であろう。

 


---
本書が描き出すような未来へと向けて社会が動き出すことを、私は願っている。
いや、こう述べるべきであった。「私はこの方向に動き出したいと思うが、みなさんはどう思われるだろうか?」

ここは私たちの社会であり、眼前に広がっているのは私たちの未来である。私たちが本気で望んで行動すれば、それが私たちの未来となる。あなたは、どう思うだろうか?あなたと私で、どんな未来を、どんな世界を、創り上げていきたいだろうか?

確かに言えることは、社会の未来を語るインテリは全員、この本と対決しなければならないということだ。賛同するにせよ異を唱えるにせよ、ここに書かれている内容を(著者のyoutube動画を見たり、他著者の本を読んだり、必要であれば簿記の勉強などもしながら)咀嚼し、誠実に対決し、自分の態度を決めなくてはならない。

特に言うなら、経済に苦手意識があり、一般に言われている何となくのイメージで経済を考えてしまっているリベラル左派系の人々こそ、この本によって最も豊かな気づきを得ることができるだろう。そしてもちろん、知的な事柄にあまり自信のない人であっても、本書の内容を忠実に吸収していけば、少なくとも経済とお金のことに関して、大きく道を誤ることはなくなるだろう。

 

 

---
随分と偉そうなレビューになってしまったが、私自身の限られた時間と労力(現行の経済システムのせいで余計に限られた時間になっている)を費やして文章を書くことで、ささやかな支援になればと思い、筆を執らせていただいた次第である。

なお、1つだけ気になる点を述べさせてもらうと、「経済成長」ないし「成長」という言葉の使い方である。著者はおそらく経済成長という言葉を「GDPの成長」と似たような意味で用いており、「GDPだけを成長させればいい時代は終わった」という点には私も全く納得する。

ただ、「成長の時代は終わった」のような論調になると、今後、テクノロジーが発展し、我々一人一人が享受しうるモノやサービスの量/質が高まっていく(そして同じ量/質を生み出すのに必要な労働時間が減っていく)未来も否定されてしまったような気になるのは、私だけだろうか?(それは人口が多少減ろうが技術革新次第で全く可能なことである)

経済という言葉を「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という本来の意味で考えるとき、また成長という言葉も単なる数値の増大ではなく総合的な成長という広い意味で考えるとき、「(経済)成長の時代から脱(経済)成長の時代へ」よりも、例えば「カネの(経済)成長ではなく深い(経済)成長を目指そう」といった標語のほうが、私にはしっくりくる。

もっとも、こうした言葉遣いは地球調和型の経済を目指す多くの人に見られることで、ここで私見を述べるようなことではないかもしれないが、著者に対する期待が大きい(単なる1つの政党ではなく様々な勢力を束ねる位置にまで発展してほしい)だけに、言及させてもらった。

カネとGDPしか見ていない人はともかく、テクノロジーの発展等に基づくもっと広い意味での「成長」を重視する勢力(地球調和型の社会を実現するためにも技術進歩による成長が必要)からも、「反成長論者」ということで疎んじられてしまう事態は、避けたいからである。

 

 

 

テリー・オファロンの発達論 2. コーザル・フロアの諸段階を概観する

  • 2019.01.19 Saturday
  • 20:18

 

 

過去の記事に引き続き、テリー・オファロンの発達論について紹介していきます。

 

前回、単に内面と外面を1つの有機的な全体へと統合できるだけでなく、創造的深淵としての空性にも少しずつ触れられるようになる段階(Construct-Aware)というのが、実は「発達の終わり」どころか、新たな発達の「始まり」であることを述べました。

 

 

そしてその新たな発達とは、超越-内在の統合へ向けた旅であり、

「超越と内在の一方のみを見る」(only one side, Construct-Aware

「超越と内在の両方を見て一方を選ぶ」(either/or, Catalyst

「超越と内在の両方を見て両方を選ぶ」(both/and, Unitive

「超越と内在の両方を1つの全体へとまとめ上げる」(integration, Illuminative

という4つの段階を経て進んでいくとされます。

 

 

 

 

さて、それでは、コーザルフロアの各段階とは具体的にどのような段階なのでしょうか?

 

以下では、同じくオファロンの論文を参照しながら、コーザルフロアの4つの段階(Construct-Aware, CatalystUnitiveIlluminative)の特徴を簡単に紹介していきます。

 

(なお、高次の段階になればなるほど、人々が今まさに開拓している段階であるゆえ、描かれる特徴は不確定性の大きいものとなります。以下の段階は我々が到達しうる1つの未来ではありますが、その具体的内容は全く決まっていないのです)

 

(以下の文章は「Terri O'Fallon(2010) The Evolution of the Human Soul」の一部拙訳です。省略、及び、かなり意訳したところがあります。正確には原文をご参照ください。また、画像と太字は私が追加したものです)

 

 

 

 

 


 

1. Construct-Aware(構築自覚的段階)

 

 

 構築自覚的段階では、5人称的視点への移行が起きる。それまでの段階では、以前の視点を対象化しうる新たな視点をもつという過程によって、順次、視点が後退していったのだが、構築自覚的段階への移行においては、それとは異なる種類のことを認識するようになる。以前の視点を対象化する視点をもつことで視点が後ろに引き下がるというこの過程そのものが、実際のパターンとして見えるようになるのである。「鏡の間」そのものを認識することによって、視点の対象化を何処までも続けられるようになる。スザンヌ・クック=グロイターは、この段階をn人称的視点と呼んでいる。

 

 そのような多重ループ構造を実際に心的なヴィジョンとして把握することによって、この新たな視点を体験する人もいれば、自分自身の感情が多重ループしていることにかなり非言語的な仕方で気づくことによって、この新たな視点を体験する人もいる。

 

 

 5人称的視点は、投影が起こっていることに「その瞬間に」気づくという体験を通して、現れることが多い。目撃者の視点が活性化され、投影作用が生じた瞬間にそれを自覚することができるのである。自己の外部にあるあらゆるものについての判断と思考は、最終的には、自己の内側にあるものが投影されたものだと認識されるようになる。知性と感情が様々な想いや物語や判断をつくりあげているということが、巡りめぐって、自分自身の内面において自覚されるのである。

 

 やがて、微細〔サトル〕な自我の存在を認識するようになると、サトルフロアのなかでは堅牢なものに思われたあらゆる概念は、絶えず変わり続ける物語、微細な知性によってつくられた構築物、実際には存在しない幻想として感じられるようになる。この認識によって、実存的な不安と苦悩がもたらされることも多い。なぜなら、具体的なものであろうと微細なものであろうと、堅く確かなものであると思っていたあらゆるものが、もはやリアルなものとして感じられないからである。具体的なものも、微細なものも、もはや構築自覚的段階の人たちを支える「基盤」にはなり得ないのである。

 

 

 認識される時間の幅はさらに伸び、多数の世代にわたって様々な構築物と物語が継承されていくことに、瞬間的に、そして歴史的な視野から、気づけるようになる。認識される空間の幅もさらに拡大し、惑星を超えて、リアリティの感覚は宇宙全体へと広がっていく。

 

 構築自覚的段階の人たちの内的世界と外的世界は素晴らしく広範であるが、それでもなお、目撃者は観察を続けている。この洞察が深まり、微細な自我の存在にも気づくようになると、自らの傲慢さや思い上がりについて心配するようになり、本物の謙虚さが現れ始める。

 

 

 フィードバックは非常に有用でありうるが、新たな色調を帯びている。自分自身(と他の人たち)があらゆるものを構築しているということを認識しているのに、一体どのようなフィードバックを真面目に受けとればよいのだろう?こうした難問のなかで、シニシズムや懐疑主義が現れることもある。

 

 さらに、この段階はコーザルフロアの初めての段階でもあるために、突然、津波に呑みこまれたかのように感じられることも多い。自らが認識している様々な構築物に優先順位をつけることが未だできないのである。かつては「自分自身」だと思っていた微細なものや具体的なものを喪失するなかで得られたこの複雑な洞察を、一体どのようにして、正しく理解し、活用していけばよいのだろう?

 

 

 この段階の人たちは、目撃者としての視点が絶え間なく瞬間的に活性化されるために、自分の話す言葉がまさに口から出ていこうとするさまを注意深く観察することができる。それはあたかも、自分の話した言葉がすぐに反響して聞こえてくる粗悪な電話機で話しているかのようである。言うまでもなく、首尾一貫して話すことは難しくなる。しかしこれは、目撃者の視点を常に活性化させようとし始めているという兆候でもある。加えて、自らの投影作用についても話し始めるようになる。どのような判断や識見を主張した後であっても、それは自分自身に対しても同じように当てはまることであると付け加えるのである。ここではまた、物事をあくまでも今この時点での物語として述べる傾向にある。

 

 さらに、構築自覚的段階の人たちの言葉は、社会的に適切なものへと消毒されずに発せられることがある。あまりにも今ここの瞬間に在るために、かつては表面下に存在していても未然に発話を阻止されていた言葉が、生々しいままで衝動的に発せられるのである。

 

 加えて、自らの傲慢さやエゴイズムについて心配していると述べたり、自らのエゴ〔自我〕を認識することについて話したりするようにもなりうる。と言っても、自分がどのようなエゴについて話しているのか(微細な自我)、あまり理解していないかもしれない。構築自覚的段階の人たちは、エゴについて話すように促されると、スピリチュアルな物質主義に言及したり、複雑な心理学的洞察を述べたり、自らの洞察や自分が知っていること全てについての傲慢さのことを話したりするかもしれない。他の人たちが理解できないことを自分は知っているということに、さらにはそうした高度な理解に対する信用を得たいという微細な自我の願望を自覚しているために、傲慢さを感じるのである。それゆえに、この段階の人たちは、複雑な問題に対処していくための自分の能力を過小に評価することがある。

 

 

 構築自覚的段階の人たちには、二度目の暗夜である「魂の暗夜」を通り抜けることを支援することが効果的でありうる。微細なスピリチュアリティの生活を行なっていた部分にぽっかりと穴が開いてしまっているからである。かつて、外交官的段階〔アンバー〕の神話的で具体的な神の愚かさを見てしまったときに味わった感情を思い出すかもしれない。しかし今回は、微細な段階でつくられた幻想や作り話の虚構性も見抜いているのである。

 

 この段階の多くの人たちにとって、このぽっかり開いた穴が「神性」の新たな顏であることを認識することは容易ではない。なぜなら、こうしたことは以前に体験したことがないうえに、大きな喪失感を抱いていうるからである。

 

 さらに、この段階の人は非常に少ないために、このストレス多き場所について理解してくれる人がほとんどいないことが多い。標準的な移行のプロセスであるにもかかわらず、当人にとってもそのようには感じられず、周りの人たちにとってもそのようには見えないかもしれない。実際、この段階の人たちは、ときに、自分の気が狂ってしまったのではないかと思うことがありうる。

 

 

 構築自覚的段階の人たちは、このようなプロセスが、そして魂の暗夜の痛みが、前に向かうための自然なステップであることを知ることで、大きな安心感を得ることができる。そうした支えがあることで、緊張を緩め、この混乱と複雑性のなかに幾らかのユーモアを見出せるようになりうる。

 

 この段階の人たちにとって、神性は喪われてしまったのではなく、新たな顏を見せているのだということを、そしてこの新たな「神性」の体験に自らを開いておくのがよいということを、誰かに指摘してもらえることは大きな助けになりうる。

 

 かつて、祈りや黙想の実践は、静寂を見つけ出すうえで非常に有益であった。外交官的段階〔アンバー〕においては具体的な思考を、専門家的段階〔アンバー/オレンジ〕から戦略家的段階〔ティール〕に至るまでは微細な思考を飼い慣らし、そして空じたのである。今や、この構築自覚的段階において、空性は、目覚めているときの生活のなかにも普通の体験として少しずつ浸透しつつある。構築自覚的段階の人たちは、静謐な目撃者の視点に含まれる豊かさに徐々に親しむようになり、目撃者の視点を活性化させている時間がますます長くなる。それは神の新たな顏であり、今や、一瞬一瞬、自分たちに付き従ってくるのである。

 

 この段階への入り口でぽっかりと開いた穴は、幾つかの段階を経て、この絶え間なく続く「神性なる静寂」へと姿を変える。全ての人類が日々の生活のなかで演じている全ての幻想を抱擁しうると強く感じるようになり、この幻想や構築物をよりよい世界をつくるための道具としてどのように使えばよいのかについて、考えが浮かぶようになる。

 

 構築自覚的段階に入りつつある人たちは、このような性質を聞くことで、大きな自由と解放を得ることができるかもしれない。自らの直面している混乱が、やがては超えていく標準的なプロセスであるということをただ知っておくだけでも、信仰心を回復し、刺激を得て、スピリチュアリティある生活を続けていくことができる――自らの知性が、何度もループする制御不能なほどの野蛮さを飼い慣らし続けることで利益を得ていると、また気づいたとしても。

 

 

 

2. Catalyst(触媒的段階)

 

 

 触媒的段階では、以前の諸段階でも見受けられた「優先順位づけ」のパターンが新たな形で繰り返される。構築自覚的な視点が徐々に内面化されていくなかで、全ての物語が構築物〔虚構〕であるとしても、幾つかの構築物は他の構築物よりも相対的に有益であることが認識されるようになるのである。触媒的段階の人たちは、様々な構築物に対して優先順位をつけ、個々の状況や人々に与える影響を比較することで、特定の構築物を選びとることができる。もちろん、それらの人々のほとんどは、その物語が構築物であることを未だ認識することはできない。

 

 この段階にいる人たちは、「境界線を跳び越える能力」や「境界線の外に出る能力」というより、「境界線そのものを移動させる能力」をもっている。なぜなら、境界線そのものもまた構築物であり、それゆえ変化させられるものであることを認識しているからである。

 

 

 この段階は、各フロアにおける対極性パターンの2番目に相当し、対極性のどちらか一方の極を選べるようになる段階である。

 

 コーザルフロアにおける支配的な対極性は超越と内在であるため、触媒的段階の人たちは内在の極(内面と外面, 心と体を統合する極)を生きることを選択するかもしれない。身体に根差した生活を送り、自らの感情を複雑化させていくのである。別の人たちは、より超越的なアプローチを選択し、自らの知性を複雑化させていくかもしれない。思考の多重ループを内省し、目撃者にとどまることを試みるのである。

 

 このようにして、超越と内在のどちらの在り方を実践することもできるのだが、両方を同時に尊重することは未だできない

 

 

 触媒的段階の人たちは、効果をあげてくれそうな多くの構築物〔虚構〕を寄せ集め、それらをとても驚くような仕方で統合するようになる。典型的なアイデア概念アプローチなどを、継ぎ目なく織り合わせ、迷宮のように複雑な全体へとまとめ上げることができる。元となる概念はユニークでなくとも、それらを織り合わせる方法、及び、複雑さをまとめ上げていく能力が実に驚異的なのである。

 

 触媒的段階の知恵を称賛する人たちでも、多くの人は、その統合された全体に含まれる豊かさと複雑さをほとんど理解することができない。そのため、触媒的段階の人たちの思いや感情は、周りには認識されず、ときに誤解され、ひどく孤立してしまうことがある。

 

 このような複雑で目まぐるしい状態が、かなりの期間にわたって続くことも多い。「触媒的」という標語はこの段階をうまく表している。なぜなら、この段階では、外的な活動を爆発させ、ほとんどの人々をひざまずかせてしまうほどの複雑なアプローチを適用していくことも多いからである。

 

 

 時間と空間に対する認識は、以前の段階と同じく、歴史的であり、間世代的である。触媒的段階の人たちは、歴史的な時間スケールを保持しながら、しかし同時にその時間スケールの視点に限定されていることを自覚しながら、複雑な構築物をまとめ上げていくことができる。

 

 この段階の人たちは、種々の複雑な構築物に対して優先順位をつけていくことに大きな自信を抱いているために、自らが与えようとしている複雑さへの理解が足りないと感じたならば、フィードバックを受け入れないかもしれない。

 

 

 触媒的段階の人たちはとても流暢に言葉を使う。そのため、彼彼女らが驚くべき知性をもっていることにほとんどの人がすぐ気づくにもかかわらず、その特長が何であるのかをすぐに指摘することはできないかもしれない。

 

 この段階の人たちの言語は、複雑で、生き生きとしており、しばしば、遊び心に満ちている。ほとんどすべての人への思いやりと真心と気遣いがあり、ほとんどすべての人に対して話しかけるという超人的な仕方で語り、しばしば、意識に浮かぶ思考や感情やイメージをただ流れるように述べていくという「意識の流れ」式の語り方をともなっている。

 

 しかしながら、自らが好んでいる特定の複雑さを理解していることへの自信が、他の人たちにはとても傲慢に見えることがある。自らの選択を強く確信しており、ときに、自分と同じやり方を行ってくれないならば全く参加しなくてよいと述べることもある。このことは、他の人たちにとっては矛盾しているように見えうる。なぜなら、他の面では並外れて思いやりのある人物であり、極めて多種多様な仕方で世界によいものを与えようとしているからである。ただ、個人的な領域においては、周りのために自らの恵まれた才能を活かそうとしないかもしれない。

 

 このような態度が生じるのは、触媒的段階の人たちは非常に高度な選択を行わなければならないからである。超越と内在の両方を認識しうるにもかかわらず、両方を同時に抱えておくことは難しく、どちらか一方を選ぶことが多い。

 

 

 普段から安定して目撃者にとどまれるようになっているため、典型的なスピリチュアリティの実践にはあまり重きが置かれなくなる。かつては坐を組んだり黙想したりすることで行っていた実践は、今や目覚めているときの生活全体に浸透しており、自らの複雑な知恵を世界に捧げようとするときにも、よどみなく、目撃者の視点を持続させることができる。

 

 外交官的段階では、瞑想や黙想や祈りの実践は、五感を飼い慣らし、満足を延期させるために用いられた。サトルフロアを通して微細〔サトル〕な知性や感情が現れるようになると、そうした実践は、微細な知性を飼い慣らし、静寂の状態をつくることに役立つようになる。そして、このコーザルフロアでは、コーザルな沈黙と静寂は、一時的な状態ではなく、普段の生活における状態になり始める。

 

 構築自覚的段階では、目撃者の視点を途切れされないことに多くの労力を割いていたが、触媒的段階へと移行するなかで、やがて散発的ながらも、沈黙という基盤が存在することに気づくようになる。そのような移行をしつつある人に対しては、渦巻きの下にある静けさへと注意を向け、日々の活動や人生の複雑性の下にある沈黙の基盤を絶えず意識するように励ますことが効果的でありうる。

 

 触媒的段階においても「魂の暗夜」は続きうるが、こうした沈黙の基盤が現れ、複雑な争いのなかで神の新たな顏――常に現前する新たな顏――が組み立てられていくにつれて、徐々に消滅していく。

 

 

 

3. Unitive(一体的段階)

 

 

 一体的段階では、6人称的視点をとることができる。触媒的段階においてハリケーンのごとく吹き荒れていた複雑な知性の外側に立ち、嵐が渦巻いていても台風の目にいるかのごとく静止していることができる。複雑性のなかに住んでいながら、その複雑性を手放すことができるのである。自らの存在と生の隅々にまで、深い平穏、受容性、内的な静寂が浸透するようになるのは、この段階である。

 

 この段階の人たちは、超越と内在という対極性の双方を、一つに結びつけることができる。ある中間点を基準にしながら、超越と内在の双方を、同時に尊重していくのである。一体的段階の人たちは、宇宙全体の広大さと、子どもに新たな靴が必要であることを、たった一息で同時に認識し、心に抱くことができる。誰一人として別のものへ変化させる必要はなく、ありのままの生を深く受容するというのが、この段階での主要な存在様式である。

 

 

 時間は永遠なるものとして、空間は無限なるものとして体験される。コーザルな沈黙と静寂は、この段階の人たちの生そのものの中に浸透している。コーザルな叡智を覆い隠すものがほとんどなくなっているため、ときどき、噴火するがごとく突然に、「一度に全てを知る」式の認識が訪れることがある。そうした認識は自ずから生じ、どこから来たものなのか、はっきりとした感覚はない。

 

 この段階の中心期にいる人たちは、自己が存在しなくなったかのように見える。普遍的なレベルで生命に対する驚きと感謝の念を抱くようになり、宇宙規模で相互につながり合っているという感覚が、ごく平凡なことであるという感覚とともに訪れる。かつては一時的な状態であったコーザルな状態が、普段の生活のなかへと浸透し、もはやときどき起こる出来事ではなく、生そのものになったのである。

 

 フィードバックは、適切なものであれば、派手に誇示することもなく、容易に、気楽に受け入れることができる。一般的に言って、この段階には軽快さがあり、情動や感情が極端に走ることはない。瞑想を行うことで到達していた「一体的」な状態は、今や、日々の生活における通常の体験になったのである。

 

 

 一体的段階の人たちは、対極性の双方を一つものとして一体化させて語るために、そしてまた、広大な空間と時間を表現するために、ユニークで生き生きとした比喩を用いうる。この段階の人たちは、互いに対照的なさまざまな段階やタイプの間に、万華鏡のように橋を架けることができる。

 

 さらにまた、意味を構築することへの死にもの狂いの欲求に巻きこまれることなく、その外側に立つことができる。あらゆるものはそうあるままで完璧なのである。

 

 この段階は6人称的視点の前期の段階であるため、自らの内面にまた新たな種類の視点を統合すること、宇宙の揺り椅子においてまた後方に揺れ戻ること、神の新たな顏をまた見つけ出すことが必要な時期でもある。

 

 一般的に言って、この段階の人たちは「魂の暗夜」から抜け出したところであり、ここを「慰めの段階」であるとみなすかもしれない。それはトランスパーソナルな段階であり、そこでは、コーザルな魂が穏やかに安らぎ、かつて瞑想と黙想と祈りのなかで出会ったものが、目覚めているときの自然な状態として実現されているのである。

 

 

 

4. Illuminative(照明的段階)

 

 

 一体的段階よりも後の段階を想像することは容易ではない。照明的段階では、内在のなかに超越がもたらされて、超越と内在が完全に一つのものになる。この段階は、次のフロアであるノンデュアルフロアへと移行する前の最後の段階でもある。この段階はまた、「揺り椅子」又は優先順位づけのパターンで言えば、前へ前へと進んでいく活動的な段階であり、後ろに下がりがちであった一体的段階とは対照的である。そしてまた、6人称的視点の後期の段階でもある。

 

 照明的段階の人たちは、あらゆる空間と時間において、多種多様な分野にまたがって、発達の全歴史を行ったり来たりすることができる。フロア横断的なパターンへの認識が、自ずから湧き出してくることもある。一人一人の人間のなかに息づいている人類共通のパターンを徐々に認識しうるようになるが、ここでもまた、地図やパターンの認識は、天空からやってくるように感じられる。

 

 だが、この段階でのパターンづけの仕方は触媒的段階でのパターンづけの仕方とは異なる。照明的段階におけるパターンは、表面的にはシンプルに見える。しかし、時間をかけて奥深くまで潜りこんでみると、そのなかには、何らかの形で宇宙全体が含まれているのである。

 

 さらにこの段階の人たちは、〔触媒的段階のように〕すでに存在している様々な地図を統合するということはしない――もっとも、すでに存在しているものはみな、彼彼女らの内部にあるけれども。照明的段階の人たちは、常に存在していたものをつかみとり、それを新たな仕方で認識することによって、意識をとらえるための方法を定義しなおすのである。

 

 照明的段階の人たちの地図は、内面にあり、彼彼女らが内在的な行動をおこなうことで表現されるものであるかもしれない。あるいは、それは哲学的な地図であり、多数の人々の発達を支援するものであるかもしれない。

 

 こうした地図をどのようにして思いついたのかについて尋ねられると、照明的段階の人は、何の警告もなくただ突然にやってくるのだと答えることがある。実際、ときに、一冊の本が、頭のなかではほんの数分間で書き終えられてしまうということがありうるのだから。

 

 

 このコーザルフロアの最後の段階において、直観が爆発的に湧き出てくるとき、それは具体的なもの(例:他の人たちの病気を知る)でありうるし、微細なもの(例:天啓として地図を受けとる)でもありうる。

 

 この種の体験は、他の段階でも同じように起こることがある。だが、より初期の発達段階では、直観によって受けとる情報は微細なものよりも具体的なものになりがちであり、そしてまた、そうした直観を、自らの才能のために手にしたものであると思いがちである。

 

 照明的段階の人たちは、自分自身を、情報を受けとるための「器」のようなものだとみなす傾向にある。それは、自分自身が所有する才能ではないのである。この段階の人たちは、話をしているときでも、流れるように口から情報が湧き出てくるのであり、自分が話しているというよりは、話の内容が自分たちのほうを通り過ぎていくように感じる。

 

 しかし、こうした体験を「チャネリング」と混同してはならない。なぜなら、照明的段階の人たちは、自分たちが何をするのか、なぜそれをするのか、そしていつそれをするのかを認識しているからである。

 

 

 この段階は非常に多産な段階であり、ここに到達した人々はヴィジョナリー〔先見の明のある人間〕であると見られているかもしれない。だが、照明的段階の人たちは、自らの知識を誰かと分かち合うことにはオープンであるにもかかわらず、社会とは距離を置いて隠遁的な生活を送っているということや、特に目立たずに過ごしているということがありうる。この段階の人は非常に少数であるが、しかし確かに、この段階は存在するのである。

 


 

 

 

 

 

以上、オファロンによるコーザルフロアの諸段階の説明(を私が大雑把に訳したもの)でした。

 

内容は非常に高度なものであり、発達論に慣れている人でさえ、かなりぶっ飛んだものに感じるかもしれません。とはいえ、これは必ずしも「そんなものに触れたことはない」というような段階ではなく、例えば私の直観では、ウィルバーの代表作『進化の構造』は(意識構造の発達という観点から見れば)主にCatalyst段階の視点に基づいて執筆された本であるように思われます。

 

あるいは、『眼には眼を』『構造としての神』『グレース&グリット』など、いわゆる「ウィルバー3」の書籍群は主にConstruct-Awareの視点や感性から書かれたものであるようにも見えます。

 

他方――こちらは高次の段階すぎて個人的にもあまり確信はもてませんが――『ワン・テイスト』などは主にUnitiveの視点、『インテグラル・スピリチュアリティ』などは主にIlluminativeの視点から書かれているように見えなくもありません。さらに最近の本は...??

 

もっとも、こうした分析は全て私の個人的な直観なので、話半分で聞いていただいたほうがよいかもしれませんが、「Catalystの地平において『進化の構造』と対等に話せるようになる」というのが、ここ数年ほどの私がずっと抱いている直観ではあります。

 

 

 

ウィルバー以外でも、主にConstruct-Aware段階の視点から書かれたように見える本は多く、例えばSpiritual Bypassingなどは秀逸な書籍だと思われますが、他方、Catalystやそれ以上の視点に基づいていると思われる(少なくとも私がそう推定できる)書籍は多くありません。

 

数少ない例の1つは、シンディ・ウィグルスワースSQ21という書籍で、これはCatalyst段階あるいはそれ以上の視点に基づいて執筆された本であると私は見ています。そしてもちろん、今紹介しているオファロンの諸論文も、その例の1つです。

 

なお、言うまでもなく、これらは全て、意識構造(≒自我の中枢的な能力)という観点に限って見たときの話です。実際には他にも無数の評価軸が存在しているので、サトルフロアだろうと何だろうと、素晴らしい本はたくさんあるし、素晴らしい人はたくさんいます。

 

逆に、コーザルフロアだろうと何だろうと、健全な在り方や不健全な在り方、秀逸な現れ方や凡庸な現れ方(例えば不健全なCatalystや凡庸なCatalyst)が存在するのであり、手放しで称賛することはできません。

 

 

 

にもかかわらず、私がこうした高次の段階について長々と紹介しているのは、人類やコスモスの未来を好ましい方向へと向け直すには――意識構造の先端度で貢献する人にとっては――Construct-Awareでは不十分であり、Catalystあるいはそれ以上の視点に立てることが必要であると強く感じているからです。

 

やや挑戦的な言い方をするなら、私の考えでは、Construct-Awareはまだウィルバー3であるゆえに、『進化の構造』(ウィルバー4)の知恵を十分に使いこなす(そして対等な地平から建設的な批判を加える)ことができないのです。

 

とはいえ、たとえそうであったとしても、Construct-Awareの先へと進んでいくための最良の方法は、Catalyst段階の在り方を見かけだけ真似することでは決してなく、Construct-Awareとしての課題に誠実に向き合うことではありますが、

 

にもかかわらず、もっと高次の段階についての大まかなイメージをもっておくことで、「新たに創発してくるもの」に自然と気づきやすくなるでしょう。

 

 

 

 

ようこそ、コーザル・フロアへ。

 

 

 

(続く)

 

 

 

〔関連記事〕

テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

テリー・オファロンの発達論 2. コーザルフロアの諸段階を概観する

 

 

 

スザンヌ・クック=グロイターの自我発達理論(論文全訳)

  • 2018.12.24 Monday
  • 00:12

 

 

 

 

スザンヌ・クック=グロイター自我発達理論に関する論文の邦訳版を正式に公開しましたので、ここでもお知らせさせていただきます。

 

「自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階」(2018, 門林 奨訳)

http://integraljapan.net/pdf/articles/JTA2018EgoDevelopment.pdf (PDF版)

http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm (Webページ版)

 

 

 

以下の紹介文にも書きましたが、私がこの論文を邦訳公開したのは、「日本語でも、無料で、発達理論に関する"これくらいの情報"には触れられなくてはならない」という強い思いがあったからでした。

 

詳しくは下記の文章をお読みいただきたく思いますが、この邦訳論文を通して、一人でも多くの人が、発達に関する理解を深められることを願っています。

 

 

 

---------------------------------

自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階

(スザンヌ・クック=グロイター著, 門林 奨 訳, 日本トランスパーソナル学会, 2018

(原論文:Susanne Cook-Greuter(2005). Ego Development: Nine Levels of Increasing Embrace

 

 

訳者による紹介文

 

よく知られている通り、ウィルバー思想やインテグラル理論の中核には「発達」という視点が存在しています。確かに発達理論の全体像を把握するうえでは、ウィルバーの書籍を読むことは有益ですが、それだけでは、発達理論そのものを十分に理解したとは必ずしも言えないでしょう。

 

近年では、発達理論に関する英語書籍(例えばロバート・キーガンの著作)が翻訳されたり、日本人によって書かれた成人発達理論に関する書籍(例えば加藤洋平氏の著作)が出版されたりと、発達理論に関する日本語の文献は増加しつつあります。

 

しかし現状、発達理論に関する日本語文献は、ビジネス領域への応用という文脈で紹介されたものが多く(それ自体はよいことですが)、こうした切り口で発達理論を学ぶことは、ウィルバー等を通して内面的ないし精神的な探求を行おうとする際には、「物足りなさ」の残るものであるとも思われます。

 

そうした事情の中で、今回、スザンヌ・クック=グロイターの自我発達理論(Ego Development Theory: EDT)に関する論文の邦訳を公開いたしました。

 

発達理論に関する上述のような既存の日本語文献と比較して、この論文の特長を挙げるなら、

 

1. 各段階の内面的特性に関する記述が充実している(例えば防衛作用、恐れ、世界観など)

2. 高次の段階についての記述が充実している(自律的段階、構築自覚的段階、一体的段階)

3. ウィルバーの「アンバー段階」が2つに分けられている(順応的段階と自意識的段階)

 

などのことが言えるでしょう。他にも、読者によって様々な着眼点がありうると思います。

 

もちろん、本論文を読んだだけで発達理論の熟達者になれるわけではありませんが(あるいは「発達」が保証されるわけでもありませんが)、ウィルバーの本の中でも、ビジネス志向の発達理論書の中でも明文化されていなかった数多くの観点や洞察に触れることができると思われます。

 

しかし何より、私がこの論文を邦訳公開しようと決めたのは、「日本語でも、無料で、発達理論に関する"これくらいの情報"には触れられなくてはならない」という強い思いがあったからでした。

 

本邦訳論文を通して、一人でも多くの人が、発達に関する理解を深められることを願っています。

 

 

 

なお、参照のため、本論文における主要な発達段階と、ウィルバーが使用する「色」の大まかな対応関係を以下に示します。ただし、ティールより後、及び、マジェンダより前の段階については、対応関係が必ずしも明確ではないため、省略しています。

 

クック=グロイターの自我発達理論

ウィルバー

一体的段階(Unitive)

 

構築自覚的段階(Construct-Aware)

 

自律的段階(Autonomous)

ティール

個人主義的段階(Individualistic)

グリーン

良心的段階(Conscientious)

オレンジ

自意識的段階(Self-Conscious)

アンバー、あるいは特に「アンバー/オレンジ」

順応的段階(Conformist)

アンバー

自己防衛的段階(Self-Protective)

レッド

衝動的段階(Impulsive)

マジェンタ

共生的段階(Symbiotic)

 

 

 

 

<論文はこちらから読めます>

PDF: http://integraljapan.net/pdf/articles/JTA2018EgoDevelopment.pdf

Webページ版: http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm

紙媒体:『トランスパーソナル学研究 第15号』(日本トランスパーソナル学会, 2018)

 

 

 

 

実存、愛、経済――人々を窒息させている3つの鎖

  • 2018.07.02 Monday
  • 19:41

 

 

 

 

現代の日本社会にどこか閉塞した空気が漂っていることは、よほど鈍感な人や恵まれすぎた人でなければ、おそらく多くの人が同意するでしょう。

 

それは"空気"だけでなく、自殺犯罪の発生、実質賃金の低迷貧困家庭の増加といった外的事実として顕在化しています。

 

 

 

けれども、その原因は何でしょうか。個別的には様々な原因が絡んでいるでしょうが、現代社会の閉塞性の最も中核にある原因とは、いったい何なのでしょうか。

 

 


ぼんやりとテレビや新聞に接している人々が、なんとなく雰囲気として感じとっているのは、こんな理由づけかもしれません。

 

少子化だから」

成長の時代は終わったから、お金がないから」

「生活のスピードが速くなりすぎて(利便性に頼りすぎて)、人々の心がすさんでしまった(他者や地域との交流を失ってしまった)から」

「理由もなにも、いつだって社会はこんなものだよ」

 

 

 


しかし、これほど重大な問題を、なんとなくの雰囲気で片づけるわけにはいきません。

私が5年ほど探究した限りでは、その原因は大きく3つ(か4つ)に分けることができます。

 

 


おそらく、最も大きいのは、経済とお金の問題です。

 

考えてもみてください。

 

どうして私たちは、これほど技術が進歩したのに、朝から晩まで馬鹿みたいに働いているのでしょうか?ちょっと子どもが減っているとか、老人が増えているとか、そんなレベルの話ではないと思いませんか?

 

どうして政府は、それも世界中の多くの政府が、莫大な額の借金を抱えているのでしょうか?ちょっと無駄遣いをしたとか、成長が停滞しているとか、そんな種類の話ではないと思いませんか?

 

どうして世界の上位8人が、世界の下位50%と同じだけの資産をもっているのでしょうか?彼らは本当に、それだけの社会的価値を世界に提供したのでしょうか?

 

 


端的に言えば、無知惰性誤った推論に基づいて、日本、そして世界の経済は運営されつづけているのです。

 

加えて、お金のシステムそのものが全く公正ではありません

 

一般的に言えば、若い世代であればあるほど、この問題による悪影響や実害は大きいですが、近年その悪影響は様々な年齢や境遇の人に波及しつつあり、何かがおかしいと感じ始めている人は着実に増えていると思われます。

 

もっとも、その疑問をきっかけに、本質的な理解に至るまで学習を重ねている人は稀ですが...

 

 


では、お金をそれなりに持てている人はだいたい幸福かというと、

 

物質的な面、ないし金銭で交換可能な面においてはそうでしょうが、内面の豊かさや真正性、幸福の深さや持続性や安定性という点では、多くの場合にそうとは言えないように思われます。

 

つまり、経済とお金の問題は極めて深刻ですが、同時に、それだけには還元しきれない内面や心身の問題も深刻なのです。

 

 

 

端的に言えば、人々の「実存」及び「」(と私が名づけている領域)が、古臭いままで全く洗練されていないか、あるいは、昔よりずっと偏狭なものになっていると思われます。

 

私たちの思考内省の在り方、他者との対話交友の在り方、真理の探求の在り方、そして未知に対峙する在り方は、とても粗雑で、あるいは近視眼的で、あるいは注意散漫なものだと思いませんか?

 

私たちの性愛恋愛の在り方、家族養育の在り方、幸福よろこびの在り方、そして友愛協働の在り方は、とても因習的で、あるいは即物的で、あるいは縁故主義的なものだと思いませんか?

 

 

 

 

 

...とはいえ、詳細はこの記事だけではとても述べきれないので、各領域ごとに、いくつかのキーワードと、参考になると思われる国や文化を挙げておきたいと思います。

 

 

 

〔注1〕なお、これらに加えて、科学技術ないし「テクノロジー」の領域にも大きな問題があると思われますが、私自身があまり探究できていないのと、上記3つの中に適宜組み込めなくもないという観点から、省略しています。

〔注2〕上記に記したのはあくまで「キーワード」であり、実現したい内容だけでなく、克服したい内容や、広く普及すべきかはともかく観点として重要だと思われる内容も含まれています。

 

 

 

 


なお、各領域におけるキーワードを4段に分けたのは少し意味があって、

 

経済の領域で挙げたキーワードは、それぞれ、主に財政の根本に関するもの(通貨発行権、政府紙幣、日銀の国債引き受け)、格差拡大の根本に関するもの(金融資本主義、ピケティの不等式、資本所得課税)、通貨システムの根本に関するもの(信用創造、債務貨幣システム、公共貨幣)、労働と所得の根本に関するもの(ベーシックインカム、国民配当)となっています。

 

実存の領域におけるキーワードは、私が最も重大な喪失であると考えているもの(究極的関心〔ウィルバー/ティリッヒ〕、スピリチュアル・インテリジェンス(SQ))、既に心理学の世界で扱われているもの(マインドフルネス、リフレ―ミング、瞑想)、哲学の大家たちが重視しているもの(パレーシア及びアスケーシス〔フーコー〕、崇高〔カント〕)、理性と霊性の協調をとくに示唆するもの(哲学的信仰、公共神学、宇宙的宗教)となっています。

 

また、愛の領域におけるキーワードは、主に性愛の在り方に関するもの(フロー・セックス、サトル・ボディ、"気"の交流)、家族の形態に関するもの(日本型近代家族、アロペアレンティング、婚外子/特別養子縁組)、恋愛の形態に関するもの(事実婚/シビル・ユニオン、オープン・マリッジ/ポリアモリー)、民主的市民としての在り方〔異なる他者との友愛の在り方〕に関するもの(活動〔アーレント〕、熟議民主主義)となっています。
 

 

 

 

さて、このように非常に異なる領域のものを並べると、おそらく興味を持てないものや、いぶかしく感じるものもあるかと思いますが、是非、今の自分の心に引っかかるものだけでも、調べてみてほしいのです。

 

Googleで、あるいはAmazonで(Google検索だけだと偏った情報や表層的な情報にしかたどり着けないことも多い)、あるいは書店や図書館の情報システムで、検索してみてほしいのです。

 

きっと、様々な関連書籍が出版されていること、様々な人が関連情報をウェブ上で発信していること、様々な関連イベントが開かれていること、そしてときには関連プロジェクトが既に進められていることに気づくでしょう。

 

たとえそこで出会った考え方や思想に同意できなくても、あるいは何とも判断しかねるものだと感じても、こうした根本的な論点を自分の中に懐胎させておくことは、自らの潜在的な器を大きく広げ、未来に起こりうる変容を、より包括的なものにしてくれるのではないかと思います。

 

 

 

しかしもちろん私は、どの領域についても、必要な時間と労力をかけて十分な探究を行えば、基本的な方向性は多くの人に賛同してもらえるはずだと考えているのであって、単なる私の意見ではなく、社会全体として目指すべき未来だと主張しているわけです。

 

 

 

自分たちでつくり上げたお金のシステムに使われるのはこのあたりにして、世を経(おさ)め、民を済(すく)い、そして、本物の超越と本物の内在に満ちた世界を、この惑星に、そしてこの宇宙に、一緒に創り上げていきませんか?

 

 

 

I have a dream... それが私のなのです。

 

あなたはまだ、夢を――本物の夢を――見ることができますか?

 

 

 

 

テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

  • 2018.01.10 Wednesday
  • 21:42

 

 

 

単に統合的であれる――様々な分野の知を有機的な全体へと結集させられる――だけでなく、空なるスピリット(創造的深淵)とも親しくなってきたときに、触れておくとよいと思われる見方があります。

 

それは「超越-内在パターン」、及び、それを1つの要素とする「発達の1234パターン」です。

 

ヴィジョン・ロジックの臨界点に到達し、空なるスピリットにさえも少しずつ触れられるようになってきた頃というのは、確かに古い旅が終わりを迎える出口であるかもしれませんが、実はそれと同時に、新たな旅が始まる入り口でもあるのです。

 

そしてその新たな旅こそ、「超越-内在パターンの旅」に他なりません。

 

 

 

とはいえ、全ての人がこの旅を始める必要はないでしょうし、いわゆる「早期教育の弊害」を考慮すると、急いで始めるべきでもないと思いますが、

 

少なくとも、やがて時が満ちたときのために、超越-内在パターン(と発達の1234パターン)を意識化しておくことは、非常に有益だと思われます。

 

 

 

そこで、以下では、テリー・オファロンの論文「The Collapse of the Wilber Combs Matrix: The Interpenetration of the State and Structure Stages」(Terry O'fallon, 2010)を主に参照しながら、超越-内在パターン及び発達の1234パターンについて概観していきます。

 

 

 

 

1. 基本となる枠組み 〜3つのフロアと対極性の統合〜

まずは、論文中に登場する次の図をご覧ください(クリックで拡大できます)。

 

 

 

かなりの"ビッグ・ピクチャー"ではありますが、よく見ると、中央の縦軸(やや斜めになっている縦軸)には、発達論に通じている人には馴染み深い語句が並んでいることが分かります。下から順に述べれば、Impulsive, Opportunist, Diplomat, Expert, Achiever, Individualist...などなど。

 

さらに、3つか4つの段階ごとに「区切り線」が引かれていることが分かります。上下端のグループには3つの段階しか記述されていませんが、基本的には4つの段階が1つのグループ("フロア")を形成すると考えて問題ありません。

 

各フロアに対応する発達段階はおおよそ次表のようになります。

 

 

 

この表からも分かるように、実はConstruct-Awareの段階――冒頭で述べたような、統合的であるだけでなく、創造的深淵としての空性にも少しずつ触れられるようになってくる段階――とは、コーザル・フロアの入り口、より正確に言えば、コーザルフロアの第一歩目だったのです。

 

そして、これから述べるように、コーザルフロアとは「超越-内在」という対極性を統合することが課題となるフロアなので、ここからまさに、「超越-内在の統合へ向けた旅」が新しく始まるのです。「発達の終わり」であるどころか、発達の始まりなのです!

 

 

 

今、コーザルフロアでは「超越-内在」の統合が課題になると述べましたが、実はそれぞれのフロアにおいて、特定の対極性を統合することが課題になるとされます。

 

具体的に言うと、サトルフロアであれば「内面-外面」、そしてコンクリートフロアでは「自己-他者」という対極性を統合することが課題になります。

 

さらに、この「対極性の統合」は、4つの発達段階を経て実現されるものだといいます。例えばサトルフロアであれば、Expert, Achiever, Individualist, Strategistの4つの段階を通して、「内面と外面の統合」という仕事がようやく完成するわけです。

 

 

 

 

 

2. 発達の1234パターン、そして超越-内在パターンとは何か

ここで大事なのは、どのフロアであろうと、4つのそれぞれの段階で起きることには共通の性質が見受けられるということです。

 

その共通の性質とは、

1. 一方のみを見るonly one side)

2. 両方を見て一方を選べるeither/or)

3. 両方を見て両方を同時に選べるboth/and)

4. 両方を1つの全体へとまとめ上げるintegration)

の4つであり、これこそが先に「発達の1234パターン」と述べたものの正体に他なりません。

 

注:コンクリートフロアにおいて発達段階名を明示しなかったのは、当該段階付近における発達段階と1234パターンの対応づけについて、議論を要する点があると思われるからです)

 

 

 

具体的に述べましょう。

 

例えば、サトルフロア4段階目のStrategist(ティール)では、内面と外面の両方を1つの全体へとまとめ上げることができます。内面と外面が統合(integration)されるのです。

 

一方、サトルフロア3段階目のIndividualist(グリーン)では、内面と外面の両方を見て両方を同時に選ぶことはできるのですが、1つの全体へまとめ上げられているとは言えない状態です。

 

サトルフロア2段階目のAchiever(オレンジ)になると、内面と外面の両方を見て一方を選ぶことはできるものの、両方を同時に選ぶ――実際の行動や選択として両方を同時に尊重する――ことは難しくなります。

 

サトルフロア1段階目のExpert(アンバー/オレンジ)になると、内面と外面の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

 

 

 

そしてこれと同様のことは、コーザルフロアでも成り立ちます。

 

コーザルフロア1段階目のConstruct-Awareでは、超越と内在の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

 

一方、コーザルフロア2段階目のCatalystでは、超越と内在の両方を見て一方を選ぶことができます。もっとも、両方を同時に選ぶことはまだ困難です。

 

けれども、3段階目のUnitiveになれば、超越と内在の両方を見て両方を同時に選ぶ――実際の行動や選択として両方を同時に尊重し始める――ようになるのです。

 

さらに、4段階目のIlluminativeになれば、超越と内在の両方を1つの全体へとまとめ上げることができるといいます。

 

 

 

1つ目のフロアには議論を要する点があると思われるので対応する発達段階名を全ては述べませんが、1234パターンとしては次のようになります。(私の意見については、機を改めて、別の記事にまとめたいと思います)

 

コンクリートフロア4段階目のDiplomat(アンバー)では、自己と他者の両方を1つの全体へとまとめ上げることができます。

 

一方、コンクリートフロア3段階目では、自己と他者の両方を見て両方を同時に選ぶことはできるものの、1つの全体へとまとめ上げているとまでは言えない状態です。

 

コンクリートフロアの2段階目になると、自己と他者の両方を見て一方を選ぶことはできるものの、両方を同時に選ぶことはまだ困難です。

 

コンクリートフロアの1段階目になると、自己と他者の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

 

 

 

このように、周期4のパターンがフロアごとに繰り返されていくわけですが、著者はさらに「前のフロアにおいて統合された全体が、次のフロアにおいて対極性の一方となる」というパターンも見受けられると述べています。

 

具体的に言えば、コンクリートフロアにおいて統合された「自己-他者という全体」は、サトルフロアにおいて「外面」の極になり、あるいは同様に、サトルフロアにおいて統合された「内面-外面という全体」は、コーザルフロアにおいて「内在」の極になるのです。

 

図で表せば以下のようになるでしょう。

 

 

 

ただし、上位のフロアに移行することで以前の対極性が消失してしまうわけではないので、その点を踏まえて(図が巨大になることを厭わず)より正確な図を描けば、例えば次のようになるかもしれません。

 

 

こう描いてみれば、サトルフロアの図とは、本質的にインテグラル理論の「四象限」そのものであり、サトルフロアの最終段階において四象限が"完成"するのだとも言えるでしょう。

 

 

 

 

長くなりましたが、要するに、もしコーザルフロアに一歩足を踏み入れているという自覚があるならば、折にふれて、超越-内在の対極性に目を開くように心がけておくと、やがて時が満ちたときに、自然な変容が訪れやすくなるのではないかと思うのです――。

 

 

 

(続く)

 

 

 

〔関連記事〕

テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

テリー・オファロンの発達論 2. コーザルフロアの諸段階を概観する

 

 

 

人々の生活を変えられない思想

  • 2017.12.31 Sunday
  • 20:53

 

 

 

発達理論やインテグラル理論の現状に対する不満や懸念は数多くありますが、個人的な実感として大切にしたいと思うのは、結局、一部の人たちが「上のほう」で何かやっているだけで、市井の生活においては全く何も変化が感じられないということです。


もっとも、1つの理論や思想にそこまで求めるのは酷かもしれませんが、少なくともその程度のことさえも出来ないのなら、インテグラル思想を「現存する最も包括的で統合的な思想」などと吹聴するのは即刻やめていただきたい

 

 


市井の生活を大きく――よくも悪くも――変えたのは、皮肉なことに、ポストモダン思想よりもヒューマンポテンシャルムーブメントよりも何よりも、インターネットの出現と浸透であり、政治的失策による長期デフレ(そして拝金主義グローバリズムによる移民問題)でしょう。


このまま進めば、次に大衆の生活を大きく変えるのも、インテグラル思想や発達理論では決してなく、技術の進展であり、さらなる経済の変化なのではないかと思います。(あるいは、軍事的ないし地球環境的な破滅)

 

 

(写真はハンブルグでのG20サミット抗議デモの様子, 2017年7月)

 

 

インテグラル思想がその役割を担おうが担うまいが、

 

カネの論理とテクノロジーの論理ばかりが我々の未来を主導していくという構造そのものに対して、異議を唱え、具体的な改革案を提示していける思想

 

が必要であると、切に思うのです。

 

 

 

「世界にはなぜ膨大な悪や苦が存在するのか」に対する神学の見方

  • 2017.10.25 Wednesday
  • 22:32

 

 

 

現代において「神が死んだ」ことには一定の正当性があるでしょう。

 

とはいえ、神学にも、単純に神の愛を信仰するものばかりではなく、ほとんど「神との対決」と言っていいような立場があることは、私のようにキリスト教と直接関わりのない人々にももっと知られるべきだと思います。

 

 

 

私たちは、創造主としての神("スピリット")の存在を仮定するとき、誠実に考えていくと次のような疑問に容易に直面します。   

 

1. 神は全能である
2. 神は全善である(完全に慈悲深い)
3. だとすれば、なぜ世界には膨大な悪や苦が存在するのか


この素朴な疑問に対して、現代の良質な神学(とくに言えば神義論(theodicy))は――様々な立場から――何らかの誠実な回答を与えようとしているのです。

 

論文『悪の問題を再考する : 現代哲学と反神義論』によれば、こうした疑問に対する典型的な反論として次の2つがあるといいます。

 

 

 

 

1. 自由意志による弁護論

 

 

1つ目は、アウグスティヌスに端を発する「自由意志による弁護論(Free Will Defense, FWD)」で、そうした悪や苦しみは、神から自由意志を与えられた人間自身の行為によるものだと考えます。 

 

なぜ自由意志を与えたかというと、全ての行動が統制されている世界より、たとえ悪を犯す可能性があっても自由意志を備えた存在から成り立つ世界の方が「より善い」とされるからです。

 

しかし、この立場に対してはこう再反論できます。(そこまで自由にこだわるのを認めるとしても)「だとすれば、『いつも自由に善を選ぶ』ように人間を創造すればよかったのではないか。『いつも自由に善を選ぶ』ことに、論理的な不可能性はないのではないか」

 

けれども、この指摘に対しても反論はありえます。「たとえ全能者であっても、 気に入った世界を何でも創造できるわけではない。総体として善が悪に勝るような世界を創造するには、 善悪両方への自由をもつ存在が必要だったのだろう」

 

そう言われるとどうしようもないようにも思えますが、さらなる反論は可能です。「ということは、神といえども論理的な制約に反することはできないということか。つまり、神は全能ではないということか」

 

ここでもし「いや、本当は何でも出来るのだが、人間の自由のためにあえてしないのだろう」と言うのであれば、「しかしそうだとすれば、こんな悪を許容してしまう神は全善ではないのではないか」という指摘が成立します。

 

こうして、どちらにせよ、神の全能性または全善性が弱められてしまうのです。そうすれば、神への忠実な信仰が弱まることも避けがたいでしょう。しかしそれでも、この方向に歩みを進める立場もあります。それが「プロセス神義論」であり、そこでは、神が全能であるという命題が放棄されるといいます。

 

 

 

 

2. 魂の形成に基づく神義論

 

 

もう1つは、「魂の形成に基づく神義論(Soul-Making Theodicy)」です。神が悪や苦の存在を許したのは、「苦労や努力を通して形成された徳は、そうでない徳よりも勝る」からだという反論です。

 

これは何らかの輪廻を前提とした「人生は修行の場である」という発想とも通じるところがあり、また、先の「自由意志による弁護論」が人間の生み出す"道徳悪"にしかうまく適用できなかったのに対して、自然災害や病苦などの"自然悪"に対しても説明を与えることができるというメリットがあります。

 

この立場(あるいは1つ目の立場にも言えることですが)に対しては、次のように再反論することができます。「こうした立場は、現実の悪や苦を過小評価しすぎではないか

 

「別に、悪や苦が全く存在しない世界がよいと言っているわけではない。人格や魂の形成には"ほどよい悪"や"ほどよい苦"も必要なのかもしれない。けれども、例えば歴史上の大規模な殺戮が、どのように人間精神の進化に役立ったのか。犠牲者がそこまで苦しむ必要はあったのか。いやそもそも、個々の苦しみを『効用』や『進化』の視点から見ること自体、非道徳的ではないか」

 

しかしこの指摘に対しても、次のような反論がありうるといいます。

 

「確かに、莫大な量の苦しみが生じているかもしれない。しかし、将来に実現される善、歓び、栄光があまりにも豊かなものであるので、そのときには、これまでのどんな恐ろしい苦痛も"かすんで"しまい、もはや問題ではなくなってしまうだろう」

 

にわかには納得しがたいですが、神は人間の想像力の及ばない仕方で、全能であり全善なのだという見方です。上記論文では、確かにこうした立場をとれば、全能全善性と莫大な苦の存在に関する論理的な矛盾は解決できるかもしれないが、情動的な問題は解決されないと述べられています。

 

そして、そうした情動的問題も引き受ける立場として、「抗議の神義論」が紹介されます。

 

 

(しかし私自身は、上記の立場では悪や苦の問題は論理的にも解決されていないのではないかと思います。なぜならこうした見方に対してさらに反論しうると思われるからです。

 

「たとえ後から見たら苦痛がかすんで見えるからと言って、途中のプロセスにおける苦しみを正当化することは、慈悲深い判断だと言えるだろうか? 全体が見えている神とは違って、我々被造物は完全な絶望のなかでおぞましい体験をさせられるのである。こんな態度が全善だと言えるだろうか? 神は被造物に対する共感力が不足しているのではないか?」)

 

 

 

 

3. 抗議の神義論

 

 

 

抗議の神義論(Theodicy of Protest)」とは、神学者ジョン・K・ロスによって提唱された神義論のことであり、そこでは、神は全善であるという命題が放棄されるといいます。

 

「そもそも、あらゆる悪や苦の責任を『罪』として人間に押し付ける一方で、全能の神を無罪放免にしてしまってよいのだろうか。それは著しく不公平ではないだろうか」

 

「神が全能であるのなら、本当に強い力をもっているのなら、それに応じた道徳的責任を課せられるべきではないだろうか。したがって、世界に膨大な悪や苦が存在することを勘案すれば、結論は明白である。神は有罪なのだ」

 

とはいえ、神が全くの悪であると言っているわけではありません。ロスは「神は善であるが、完全には善でない」と述べています。神も人と同じく「より善になる」余地があるのです。

 

ヨブ記の最終場面で、全能の神を前にしたヨブが静かな抵抗を示した(とも解釈できる)ように、私たちは被造物として、神の不正に抵抗していくのです。神の過失を告発し、放置された悪を克服し、神の不正を人の正義に変えていくのです。

 

そのことによって、善なる神が実現されるのを待ち望みながら――。

 

 

 

 

 

以上、上記論文を参考に「自由意志による弁護論」「魂の形成に基づく神義論」「抗議の神義論」の紹介を試みましたが、私自身が少なからず解釈や取捨選択を行っているので、正確には原文をご参照ください。


表にもまとめておきます。

 

 

 

 

なお、ケン・ウィルバーやインテグラル理論との関連で言えば、ウィルバーの立場は「プロセス神義論」に近いように思われます。

 

スピリットは世界を対立なきものとして生み出すことはできなかった、エロスがあなたを穏やかに説得していく...などなど。もっとも、ウィルバーもプロセス神学もホワイトヘッドの哲学を参照していることを踏まえれば自然なことではあります。

 

しかし逆に言えば、ウィルバー思想やインテグラル理論には「抗議の神議論」の成分が著しく不足しているのではないかと私は思います。スピリットの善性に対する信仰が強すぎるのです。

 

スピリットの不完全な善性に抗議するという視点が矮小化されている限り、インテグラルな霊性は、どこかお説教的で、恩着せがましく、現実の悪や苦に鈍感な、いわば「去勢された霊性」であり続けるでしょう。

 

 

 

 

※様々な神義論の考え方や、抗議の神義論にもつながるヨブ記の解釈について知りたい方には、上記論文に加えて次の書籍をお薦めします。

 

 

 

  『神は悪の問題に答えられるか――神義論をめぐる五つの答え』

  (スティーブン・T・デイヴィス編, 教文館, 2002)

 

 

 

 

 

 

  『ヨブへの答え』

  (カール・グスタフ・ユング著, みすず書房, 1998)
 

 

インテグラル理論は使っても使われるな

  • 2017.10.24 Tuesday
  • 22:59

 

 

 

インテグラル理論を紹介する記事を書いておいて何ですが、私は現状のインテグラル・コミュニティに大した未来はないと考えています。

 

Integral Lifeのサイトなどで、毎月毎月、中身の薄っぺらい同じような文章が量産されているのを見るたびに、ますますその思いは強くなります。

 

確かにインテグラル理論は、本物を目指す現代の探求者ならば誰でも知っておくべき秀逸なアプローチではあり、その意味で私も広く普及させるべき理論であると思っていますが、ウィルバーや信奉者が吹聴しているように、それだけで世界の根本問題が解決することはないでしょう。

 

 

 

インテグラル・フレームワークを「基礎教養」として一通り学んだら、あとは折にふれて参照するくらいが最もよく、普段はそうしたフィルターを介さずに、自分自身の内なる声や世界の本質的な問題に耳を傾けたほうがよいです。

 

「インテグラル理論を使って世界を改善しよう」と問うのは二流です。まず、世界を改善するとはどういうことで、そのためには何が必要なのかを考えたうえで、もし必要ならばインテグラル理論というツールを活用するのが本物の在り方でしょう。手段と目的を逆にしてはいけません。

 

それはちょうど「情報テクノロジーを使って教育を改善しよう」というようなものでしょう。まず、教育を改善するとはどういうことで、そのためには何が必要かを熟慮したうえで、必要ならば情報テクノロジーを活用すべきであって、情報テクノロジーの活用に適した「教育の改善」ばかりを優先させるべきではありません。

 

同じように、インテグラル理論の活用に適した「世界の改善」だけを強調し、そこに不当な優先順位を与えるべきではないのです。

 

「インテグラル理論を使って世界を改善しよう」という善意のもとで効果的に実現されるのは、世界の改善ではなく、インテグラル理論の支配力拡大であるということを肝に銘じるべきです。

 

 

インテグラル理論は使っても使われるな

 

インテグラル理論の支配力拡大が自己目的化するとき、自分がインテグラル理論を使うのではなく、インテグラル理論が自分を使うことになるでしょう。

 

 

 

10分で分かるインテグラル理論入門 Part3(最終)

  • 2017.10.22 Sunday
  • 22:12

 

 

 

〇4. タイプ

 

 

 

例えば、自我の重心を同じ合理的段階に置いている人であっても、ある人は時流の変化を捉えた新規ビジネスを立ち上げ、ある人は科学や哲学の基礎研究に邁進するかもしれません。

 

深く捉えるなら、前者の人は世界に適応することで世界を変えようとし、後者の人は世界の真理を解き明かすことで世界を変えようとしたと言い直せるかもしれません。

 

ここで大事なことは、本質的にどちらが優れているというわけではないということです。時代に機動的に適応することも、時代に左右されない永遠の真理を追求することも、どちらも重要なことであり、なくてはならない活動です。

 

このように、本質的に優劣や順序をつけることのできない――そしてどれも必要なものである――人々の性格や行動傾向の類型のことを、インテグラル理論では「タイプ」と呼んでいます。 

 

 

 

 

有名なところでは、MBTIにおける「内向-外向」「直観-感覚」「思考-感情」「判断-柔軟」の16タイプ、エニアグラムにおける「改革する人」「助ける人」「達成する人」「個性的な人」「調べる人」「忠実な人」「熱中する人」「挑戦する人」「平和をもたらす人」の9タイプなどがあります(知らない人はMBTIやエニアグラムで検索してみてください)。

 

タイプとレベルを組み合わせることで、同じ合理的段階に自我の重心を置く人であっても、例えば「合理的段階における内向的な人」と「合理的段階における外向的な人」では、性格や行動傾向が驚くほど異なることが分かります。

 

こうしたタイプ論は、自分や他者の在り方を決めつけるためではなく、一人一人の強みと弱みを認識しやすくするために、そして出来れば、自分にとって弱いタイプの性質や行動を少し採り入れてみる――必要に応じて自らのタイプそのものを変形する――ために、用いられるべきものです。

 

他に「男性性-女性性」といったジェンダーに関するタイプ論もありますが、これも「この性別だから〇〇だ」と一方的に断定するためではなく、女性であれ男性であれ、必要や意欲に応じて両方のタイプを採り入れられるようにするために用いるべきでしょう。

 

 

 

 

〇5. ステート

 

 

 

あるレベルに自我の重心があったとしても、私たちは、常にそのレベルの複雑度/包括度に基づいて行動するわけではありません。私たちの意識や身体の状態は、一刻一刻変化しており、普段よりも高いレベルの複雑度/包括度で行動するときもあれば、低いレベルで行動することもあります。

 

こうした「一瞬一瞬の変化」を捉えようとするのが、インテグラル理論における「ステート」(状態)という要素の1つの役割です。

 

しかし、ステートには、もう1つの極めて重要な意味があります。

 

私たちは毎日、眠り、夢を見て、目覚めます。私たちの生活は「目覚めの状態」「夢を見ている状態」「夢のない深い眠りの状態」という3つの状態を巡っているわけですが、インテグラル理論では、目覚めの状態だけが現実であるとは考えません。

 

長年にわたって瞑想等の実践に励み、その道を究めてきた多くの人たちが、夢を見ている状態、さらには「夢のない深い眠りの状態」にまでも、意識をもったまま入ることができると報告しています。

 

それどころか、この「夢のない深い眠りの状態」こそが、最もリアルなものであることが明らかになると言います。

 

詳細は述べきれませんが、ともかくインテグラル理論では、自我の複雑度/包括度(レベル)を発達させるだけでなく、瞑想や祈りなどの実践を通して、様々な意識状態(ステート)を探求することが強く奨励されているのです。

 

 

 

 

〇6. 鍵となる3つの考え方

 

 

 

以上がAQALの5つの要素ですが、他にもインテグラル理論には、重要な考え方がいくつかあります。まずは次の3つを知っておけばよいでしょう。

 

 

 

1.「全ては正しいが、部分的である」(true but partial)

 

教師の授業の例で示したように、生徒の目線や手の動きに着目するのも、生徒が何を感じ考えているかに着目するのも、生徒-教師間の信頼関係に着目するのも、どれも間違っているわけではありません。どの視点も「正しい」のです。

 

しかし、どの視点も単独では限界があり、「自分の着眼点こそが唯一正しいのだ」とは言えません。つまり、どの視点も「部分的」なのです。

 

このように、複数の異なる視点が存在・対立しているときに、「どの視点も何らかの真実を含んでいるが、百パーセントの真実をカバーしているわけではない」ことをまず認めるのが、この「正しいが、部分的」という原則です。

 

もちろん、実際に行動を決定するためには、個別的な状況や事例に照らして各視点への重みづけを行っていく必要がありますが、初めに「正しいが、部分的」の理念を認識/共有できているかどうかで、その後の対話の在り方が大きく異なってくるでしょう。 

 

象限の例を挙げましたが、他の要素に関しても同様のことが言えますし、また、AQALとは直接に関係のない切り口で視点や傾向が対立しているときにも、この考え方を指針として用いることができます。

 

 

 

2.「含んで超える」(transcend and include)

 

インテグラル理論では、ある発達段階(レベル)は前の発達段階に対して、「含んで超える」(あるいは「超えて含む」「超越と包含」)という関係にあると考えます。

 

例えば、ある人の自我の重心が神話的段階から合理的段階へと移行していくとき、神話的段階で身につけた能力(例えば特定の社会的役割を担う能力)は失われるわけではありません。そうした能力は、前の段階を「超えた」後も、新たな段階の自分の中に「含まれて」いるのです。

 

したがって、レベルの発達とは、次図のような「入れ子」のイメージで捉えることができます。

図からも推測されるように、たとえあなたが統合的段階の自我を確立したとしても、あなたの中には、以前の各段階(多元的段階、合理的段階、神話的段階、利己的段階など)の知恵と限界が残り続けるのです。

 

 

 

3.「前/超の混同」(pre/trans fallcy)

 

レベルという要素に関連して、もう1つ、重要な考え方があります。

 

例えば、多元的段階も神話的段階も、当然ながら合理的段階ではありません。したがって、ある意味ではどちらも「非合理的」なのですが、実際には両者の性質は驚くほど異なるものです。

 

自分の価値体系そのものを対象化できるほどに複雑な自我と、そもそもまだ自分の価値や信念を体系的な全体へと結びつけることのできない自我。ともに「合理的でない」からと言って、両者を一緒くたにして物事を分析してしまっては、良質な議論を行うことは出来ないでしょう。

 

こうした混同のことを、インテグラル理論では「前/超の混同」(「前/超の虚偽」)と呼んでいます。

 

上の例で言えば、神話的段階は「前-合理的」、多元的段階は「超-合理的」なのであり、発達において「前」と「超」を同一視してはならないのです。

 

(なお、「含んで超える」の原則から言えば、多元的段階には確かに合理的段階の知恵が残り続けていますが、その占有率は下がっており、また主導権を握っているのも多元的段階の自我なので、「合理的でない」ように見えることが多いのです)

 

 

 

 

〇地図はリアリティではない

 

 

以上、「象限」「レベル(段階)」「ライン」「ステート(状態)」「タイプ」というAQALの5要素と、「全ては正しいが部分的である」「含んで超える」「前/超の混同」という3つの考え方を紹介しました。

 

ここまで読んできたみなさんは、インテグラル理論とはどういうものなのか、その大まかな内容をつかむことができたのではないかと思います。興味をもった方は、是非、自分で調べたり、内容について他の人と意見を交わしたり、このフレームワークを自分自身や様々な状況に適用したりしてみてください。

 

 

 

最後に述べておきたい点があります。インテグラル理論、あるいはインテグラル・フレームワークは、あくまでも地図であって、リアリティ(現実)そのものではないということです。

 

インテグラル理論の創始者であるケン・ウィルバーはこう述べています。

言い換えれば、わたしの本はみな嘘である。それは地図であって現地ではなく、リアリティの影であってリアリティそのものではない。――ケン・ウィルバー

 

確かに統合的なフレームワークを用いれば、自分他者世界をこれまでよりもかなり包括的に捉えることができるでしょう。私の経験から言っても、そのことは確かです。

 

しかし、どんな網の目を用いても、リアリティそのものは常にその向こう側にあり、網の目から漏れ出ていくものが必ず存在している――ウィルバーはそう警告しています。

 

ある研究者の言葉を借りれば、リアリティとは「未分化の現象論的連続体」なのです。  

 

 

 

 

(終わり)

 

 

〔関連記事〕

10分で分かるインテグラル理論入門 Part1

10分で分かるインテグラル理論入門 Part2

10分で分かるインテグラル理論入門 Part3(最終)

 

 

 

10分で分かるインテグラル理論入門 Part2

  • 2017.10.21 Saturday
  • 21:38

 

 

 

〇2. レベル

 

 

 

子どもから成人にいたる過程を考えれば明らかなように、人間の成長とは、水平的、あるいは量的に知識や経験が増えていくだけのものではなく、垂直的に、質的な飛躍を遂げていくものでもあります。

 

インテグラル理論では、そうした質的な飛躍は子どもから成人までの間に限られるものではなく、適切な条件が整えば、成人してからもさらに起こりうるものであると考えます。成人の自我もまた、「あるレベル」から「次のレベル」へと成長していくことが可能なのです。

 

 

 

入門なので、以下では5つのレベルからなる簡単なモデルをごく簡単に述べます(各段階の性質は、私自身が独自の観点から切り取ったものです)。

 

なお、インテグラル理論では段階名の代わりに「色」を用いることも多いので、括弧内に併記しました。

 

 


 

  1. 利己的段階(レッド) 及び それ以前の段階

  豊かな衝動や自発性が見られるが、

  社会的な規則やルールをまだ内面化していない。

  小さな子どもには典型的だが、成人だと社会生活に難あり。

 

 

 

 

  

  2. 神話的段階(アンバー)

  社会的なルールに従うことができるが、

  自分の信じている物語や規範を批判的に検討することは困難。

  中学生や高校生に典型的。

  伝統、信念、仲間への愛。忠実な信仰。

 

 


 

  3. 合理的段階(オレンジ)

  複数の信念や価値を1つのシステムへと結びつける。

  現代社会において成人の目標とされている段階。

  批判的思考、良心。懐疑、寛容、情熱、博愛、崇高。

 

 

 

 

  4. 多元的段階(グリーン)

  合理的段階で身につけた価値体系を対象化し、

  その外にあった価値や意味にも自分を開き始める。

  脱構築、身体性、非線形性。

 

 

 

 

  5. 統合的段階(ティール) 及び それ以後の段階

  複数の価値体系や認識体系の間をかなり自由に行き来できる。

  再構築、心身統合。

 

 

 

 

非常に大雑把に言えば、どんな人の自我も、これらの段階(レベル)のどこかに、あるいはその中間のどこかに"重心"を置いていると述べることができます。


そして後の段階ほど、前の段階よりも、自我の「複雑度」ないし「包括度」が質的に1つ上であることを意味しています。こうした複雑度/包括度の各段階のことを、インテグラル理論では「レベル」と呼びます。

 

ただ、こうした段階は、その人の自我の複雑度や包括度を表してはいますが、その人の「社会的な有能さ」の程度とは必ずしも一致しません。また、自我の重心が後ろの段階にある人のほうが「人間としてあらゆる点で優れている」わけでもありません

 

例えば、私の自我の重心が多元的段階にあり、あなたの自我の重心が合理的段階にあったとしても、あなたのほうが成功しているかもしれませんし、多くの面で成熟しているかもしれないのです(次項参照)。

 

様々な調査によれば、文化圏にもよりますが、神話的段階と合理的段階の"中間"付近に自我の重心を置いている成人の数が最も多いと考えられています。

 

 

 

 

〇3. ライン

 


 

自我は自己同一性や防衛機制の中心点でもあるので、確かに本当に中枢的な部分においては、人間の能力は一定のまとまりをもって複雑度や包括度のレベルを上げていくように思われます。

 

とはいえ、それ以外の非常に多くの部分においては、個々の能力領域ごとにレベルが異なるほうがむしろ一般的です。

 

例えば、自我の中枢的な能力という点では合理的段階の複雑度や包括度をそなえているけれど、世界観実存という点では、神話的段階の複雑度や包括度にとどまっている、つまり、自分がこれまでに身につけてきた物語や規範を批判的に検討することがまだ難しいかもしれません。

 

あるいは、もっと個別的に、例えば家族性愛の領域であるとか、例えば経済の話になると、懐疑や寛容の態度は現れず、神話的段階の複雑度や包括度に基づいて、つまり、伝統や世間的理解を無批判に受容して考えたり感じたりするかもしれません。

 

こうした個々の能力領域のことを、インテグラル理論では「ライン」と呼びます。5種類や10種類のラインだけで代表させることもできますし、細分化の度合いを高めれば、100種類でも1000種類でも(ほとんど無限に)ラインを定義することができます。

 

ラインとレベルを組み合わせることで、次のような「サイコグラフ」が出来上がります。

 

 

例えば、ある人のサイコグラフが上図のようであれば、認知のラインでは多元的段階を少し超える複雑度/包括度に達しているけれども、自我や感情のラインは合理的段階程度であり、世界観実存スピリチュアリティセクシュアリティ、ジェンダー、経済科学のラインではまだ合理的段階の複雑度/包括度をもって関われていないということになります。

 

ラインの種類はもっと少なくてもよいですし、他にも、例えば「食生活のライン」「簿記のライン」「軍事のライン」「歯科技術のライン」など、必要に応じて多様なものを追加することができます。

 

ただし、当然ながら、能力の発達は、自我のレベルと並行して起こるものだけではありません。実際、日常的に必要な個別的能力の多くは、ある程度の発達レベル(例えば神話的段階)にまで達してしまえば、自我のレベルとは関係なく、水平的に、あるいは量的に身につけていけるものでしょう。

 

しかし、人間の能力には少なからず「質的な飛躍」を要するものがあり、そのためには、各能力の発達レベルを考えることが重要なのです。

 

 

 

Part3へ続く)

 

 

〔関連記事〕

10分で分かるインテグラル理論入門 Part1

10分で分かるインテグラル理論入門 Part2

10分で分かるインテグラル理論入門 Part3(最終)