新刊『インテグラル理論を体感する』近日発売のお知らせ

  • 2020.01.17 Friday
  • 21:02

 

 

 

訳書出版のお知らせです。

 

ケン・ウィルバーの著書Integral Meditationの邦訳

インテグラル理論を体感する:統合的成長のためのマインドフルネス論

(ケン・ウィルバー著、門林 奨訳、発行:コスモスライブラリー、発売:星雲社)

がまもなく(2020年1月下旬に)発売されます!

 

全国の書店および各種ウェブサイトにて、お買い求めいただけるようになります。

Amazonでは既に予約が可能になったようです。

 

 

 

以下、Amazon用の内容紹介をこのブログにも転記しておきます。

 

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〔内容紹介〕

インテグラル理論×マインドフルネス

インテグラル理論のそれぞれの要素に気づきを向けて包含する!

ケン・ウィルバーの新著、10年ぶりの邦訳!


『ティール組織』や成人発達理論の理論的土台でもあり、
昨年、A Theory of Everythingの旧訳書が『インテグラル理論』として新訳復刊された「インテグラル理論」。

本書で展開されるのは、インテグラル理論を構成する各要素、すなわち、
象限、レベル、ライン、ステート、タイプという5つの要素に対して、マインドフルな気づきを向けることです。

そしてその根幹をなすのは、
自分自身の日常的な能力を最大限に成熟させていく「グローイング・アップ」の道(成人発達理論と関係)
自分自身の根源的なアイデンティティに目覚めていく「ウェイキング・アップ」の道(マインドフルネスと関係)
という「2種類の成長や発達」を結びつけること。

・本当の意味で「統合的」な自己成長・自己変容を実現したい人
・インテグラル理論を単に知的に理解し活用するだけでなく、心身で深く体感し、自分のものにしたい人
・成人発達理論のような「発達」の視点をもっと多角的に学びたい人
・瞑想や「スピリチュアリティ」の領域に関するバランスのとれた羅針盤を得たい人
そして
・ウィルバーの最新の考えや想いを知りたい人
にとって、本書は必読の一冊です。


「この複雑で多様な世界のなかで、私たちの自己は、
かつてないほど多様な声を聞きながら、形づくられ、反応し、変化しています。

けれども、私たちはその中で迷子になっていないでしょうか。
あるいは、迷子にならないために、心や世界についての何らかの「地図」を学んだかもしれません。
しかし、その地図はどれほど包括的で、どれほど普遍的で、どれほど多様な見方に開かれたものでしょうか。

本書では、さまざまな声や視点にマインドフルな気づきを向けていきます
そうすることで、自分が無意識に従ってきた地図を意識化し、
これまでよりも遥かに包括的で統合的な視野から、自己、他者、世界を捉えられるようになるでしょう」
(訳者による新刊紹介より)

 

 

〔目次〕

イントロダクション
マインドフルネスとは何か
発達という隠れた地図を掘り起こす
二種類のスピリチュアリティ
個人としての発達

第1章 グローイング・アップ:発達という隠れた地図
段階1:古代的段階(インフラレッド)
段階2:呪術的段階ないし部族的段階(マジェンタ)
段階3:呪術-神話的段階(レッド)
段階4:神話的段階ないし伝統的段階(アンバー)
段階5:合理的段階ないし近代的段階(オレンジ)
段階6:多元的段階ないし後-近代的段階(グリーン)
段階7:統合的段階(ターコイズ)〔注:「ティール」の段階もここに含まれる〕
段階8:超-統合的段階(ホワイト)

第2章 ウェイキング・アップ:悟りへの道
さまざまな意識状態
主要な3つの意識状態:粗大、微細、元因
トゥリーヤ:究極の目撃者
トゥリヤティタ:非-二元の一なる意識
人類の変容を促す「ベルトコンベア」
「形態」は進化していく
「大いなる完成」と「原初の回避」
さらなる論点

第3章 ショーイング・アップ:意識にそなわる多様な視点
四象限とは何か
ビジネスにおける四象限
私(I)、私たち(We)、それ(It)
人間関係における四象限
「私」の視点と「それ」の視点の違い
「私」と「あなた」が「私たち」をつくる
「私たち」という空間について
「私にとっての私たち」と「あなたにとっての私たち」
「私」の諸段階と「私たち」の諸段階
スピリチュアルな「私たち」空間
四象限とショーイング・アップ
四象限一周の旅

第4章 発達のさまざまなライン:多重知能を探究する
発達のさまざまなライン
各ラインへのマインドフルネス
統合的サイコグラフ
AQAL マトリックス
タイプについて

第5章 在るものすべての全景画
ワン・テイスト
次に行うべきこと

 

 

講師やゲスト参加等のご依頼は全てお断りさせていただきます

  • 2020.01.16 Thursday
  • 21:22

 

 

 

昨年、訳書を出版したこともあり、依頼や連絡がくることが時折ありますが、各種イベントへの講師やゲストとしての参加のご依頼は、今後、基本的に全てお断りさせていただきます

 

 

理由は単純で、自分のやるべきこと(現在は主に翻訳)に集中するため、もっとはっきりと言ってしまえば、そこに時間と労力を割くだけの意味をどうしても見出せないからです。

 

 

時間と述べましたが、単にそのイベントが行われる日だけの問題ではなく、普段の内省のレベルから日常的なレベルに「浮上」ないし「下降」してこないといけないため、実質的には、その1日のために、少なくとも2週間から1か月ほどの間、深い内省ができなくなってしまうからです。

 

 

何か例外的に魅力的な条件(例えば1000万円の報酬)などあれば考えるかもしれませんが、現実的に想定しうる範囲の内容であれば、お受けいたしません。もっとも、もし本当にそんな依頼が来たら、罠であることを警戒して受けないでしょうが。。

 

 

私自身の残された時間と資源を、この世界全体の根源的改善のために、最適だと思える形で使わせていただきたいと思います。

 

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    「発達は善ではない」のパラドクスとタナトスと薄っぺらさ

    • 2019.09.15 Sunday
    • 14:29

     

     

     

    近頃、発達を過剰に美化する傾向に抗して、

    発達が善ではないことを強調する言説も増加しているようであるが、

     

    最終的には、発達は善ではないことを強調しすぎると自己矛盾に陥ることも、

    私たちは同時に認識しておくべきだろう。

     

     

    まず、意識構造(自我、自己)の発達を遂げたからと言って、全てがよくなるわけではないのは明らかである。その意味で「発達が単純に善ではない」というのは全く正しい。

     

    とりわけ、その人が社会(あるいは特に、その人が密接に関わっている集団)の重心から遠ざかる方向へと発達する場合には、以前より包括的な自己を確立するようになることと引き換えに、社会と自分とあいだの「断絶」は大きくなるだろう。

     

     

    けれども、こうした「発達は善ではない」論者がしばしば見落としているのは、

    あなたと同じような意味で『発達が善ではない』と言えるためには、かなりの発達を遂げていなければらない

    という単純な事実である(例えば構築自覚的段階への発達が必要かもしれない)。


    これはちょうど、いわゆるグリーンの段階において、
    「あなたと同じような意味で『全ての人は平等である』と言えるためには、かなりの発達を遂げていなければならない」

    という事実が見落とされがちであることと相似形をなしているようにも思われる。

     

     

    発達したら全てがよくなるのでは?という単純な幻想に酔いしれる人々に対して、

    発達してもそんないいことはないよと突き放すことは方便として必要かもしれないが、

     

    あまりにもそれを強調してしまうと、ちょうど極端な脱構築的ポストモダニズムのように、

    自分自身の足場まで破壊してしまうことになりかねいのである。

     

     

    * 

     

    そしてもうひとつ、これは個人的な直観であるが、

     

    ある人が発達が善ではないことを過剰に強調するとき、その人自身が新たな段階における新たな自由と解放を見出すことに失敗していることが多いように見えるということである。

     

    人は、自分自身が新たな段階での「解放」を見出すことに失敗したとき、しばしば、その段階そのものを否定し、失われた解放を過去の段階に投影することになる(例えば「大人になったらろくなことがないから今のうちに人生を楽しんでおくんだよ」としか子どもに伝えられない大人などはその典型であろう)

     

    失敗すること、うまくいかないこと、問題を解決できないのは仕方のないことであるが、自らがうまくいっていないということを自覚し、自らの境遇とその段階そのものの性質を同一視するのはやめるべきだろう。

     

    (実際、私自身は、自らの構造的発達そのものにはかなり「満足」しており、極端な話、たとえそれで「命を落とす」ことになったとしても、以前の段階に戻りたいとは思わない。だから逆に、私から見れば「満足バイアス」があるかもしれないが、少なくともそのことは自覚しているつもりである)

     

     

     

    人々の今いる段階――未来に到達したいと思っている段階からすれば「低位」の段階――を尊重するのは、疑いなく、大事なことである。

     

    とはいえ、そうした「尊重」の姿勢が、アガペー(低位を抱擁する)ではなく、タナトス(低位を救うために高位を破壊する)として表明されていないかに、我々は注意する必要があるだろう。

     

    発達だけで全てがよくなることはない、と指摘するのはアガペーだが、

    発達なんかしても何もいいことはない、と指摘するのはタナトスだろう。

     

    発達は単純な善ではない、はアガペーだが、

    発達は少しも善ではない、はタナトスだろう。

     

     

    そしてタナトスを癒し、アガペーとして表現しなおすための処方箋は、

     

    対症療法としてはまず、先にも述べたように、自分の個人的な境遇を、今いる「高次」の段階そのものの性質と同一視するのをやめるということ、

     

    そして原因療法としては、自分が今いる「高次」の段階そのものをもっと自覚的に対象化しつつ探究するということ(もしあなたがティールより後の段階にいるならば、例えばコーザルフロアの諸段階に関するテリー・オファロンの記述が参考になるだろう)

     

    とりわけ、自分が今の段階において本当は何を求めており、何を恐れており、何をしたいのかに対して、もっと「正直」になる(左上象限の妥当性要求)ということではないかと思う。

     


     

    しかしいずれにせよ、大事な点は、ウィルバーも指摘しているように、

    私たちはその存在の核心において、どのような発達段階にも位置していない

    ということである。

     


    それゆえ、発達を過剰に美化する傾向に対して、発達は善ではないと主張して対抗するよりも(それはそれで必要であるが、実に薄っぺらい批判だとは思わないだろうか?)、

    発達は素晴らしいことだが、私たちの本質はもっと深いところにある

    と主張するのが「本命」であると私は思う。

     

     

    日常的な次元に目を向けるとき、発達は――特に社会の重心から離れる方向の発達である場合には――よいことばかりでは全くない。

     

    内面的な次元に目を向けるとき、発達は――もしシャドーや不均衡を肥大化させずにある程度健全におこなわれるならば――素晴らしいことである。

     

    しかしもっと深い次元に目を向けるとき、発達ということそのものの意味が、大きく変容することになる(例えば、意識状態の話を抜きにして意識構造の発達を語ることが、極めて「表層的」なことだと思われてくるかもしれない)。

     

     

     

    ともあれ、私たちはこうしたこと全てを、もっと軽やかに、もっとユーモアと笑いをもって、しかし誰よりも真剣に、語るべきだろう。


    なぜなら、あなたの不生不滅の本性は、こうしたことすべてから全く影響を受けないからであり、

     

    にもかかわらず、こうしたことすべては、スピリットの輝ける自己表現、私たちの〈本来の顔〉が押し進めている自己修正プロセスのひとつだからである。

     

     

    ここではただ、発達というプロセスそのものの如性だけが、もっと正確に言えば、発達というプロセスが発達というプロセスそのものを対象化し始めたことの如性だけが、

     

    今ここで、無-時間的に、水晶のように透明な瞬きとして、現前しているのである。

     

     

    新刊『インテグラル理論』 発売開始のお知らせ

    • 2019.06.15 Saturday
    • 17:03

     

     

     

    訳書出版のお知らせです。

     

    ケン・ウィルバーの著書の邦訳

    インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル

    (ケン・ウィルバー著, 加藤洋平 監訳, 門林奨 訳, 日本能率協会マネジメントセンター)

    が本日出版されました!

     

    全国の書店にて、あるいはAmazonや楽天でも、お買い求めいただけます。

     

     

     

    <書籍紹介(ブログ版)>

    近年、日本でも、成人以後の発達理論に対する関心が高まりつつあります。ロバート・キーガンの邦訳書や加藤洋平氏の著作を初めとして、最近では『ティール組織』の売上が7万部を突破するなど、新たなモデルに対する需要は増加しているようです。

     

    実際、『ティール組織』の理論的基盤にもなっているのがケン・ウィルバーの創始したインテグラル理論であり、そのインテグラル理論への格好の入門書と言えるのが本書『インテグラル理論』です。

     

    本書を通して、段階という見方についての理解を深められるのはもちろん、ひろく社会や世界、自然や文明との関わりについても、根本から意味を問い直すための壮大な手がかりを得ることができるでしょう。


     

    また、心理や霊性の領域に関心をもっている方で、「昔のウィルバーはよく知っているけれど、最近のウィルバーが何を言っているかはあまり知らない」という方にも、是非ともお読みいただきたい本となっています。

     

    「誰もが真実のかけらをもっている」というインテグラル思想の大原則が最も豊かに表現されているのが本書であり、単に「インテグラル理論」を紹介するだけでなく、そもそも「統合的(インテグラル)」であろうとすることの意義を、深く伝えてくれているからです。


     

    なお、注意点として、本書は全く新しい原著の訳書というわけではなく、以前に『万物の理論』として邦訳された書籍の新訳版であるということがあります。

     

    しかし今回の訳書は、日本語として読みやすく、かつ、原文の微妙な意味合いも伝わる文章になることを重視して、一から全面的に訳し改めたものであり、さらに、旧訳版にはない複数の図表(計8個)や多数の訳注、監訳者による序文と解説(と私の訳者あとがき)も追加されています。

     

    加えて、出版社が「日本能率協会マネジメントセンター」となっていることからも想像されるように、ウィルバーの書籍としては異例の「ビジネスパーソン向け」仕様となっており、編集や体裁が今までのウィルバーの書籍とは一味違うものになっていることがわかるかと思います。

     

    このような理由から、旧訳版を読んだことのある方にも、原著を読める方にも、新たな気づきや発見をしていただける本になったのではないかと思っており、そうした方々にも、本書を「創造的復習」のつもりでご一読いただけましたら幸いです。


     

    <本書目次>

    第1章:私たちはどこへ向かっているのか 〜現代の発達心理学の視点より〜

    第2章:発達とは何か 〜自己愛とケア――発達の本質と現代社会の病〜

    第3章:インテグラル理論とは何か 〜統合的ヴィジョンの概要〜

    第4章:宗教をどう考えるか 〜「瞑想の科学」としてのスピリチュアリティ〜

    第5章:インテグラル理論を活用する 〜現実世界への応用――ビジネス、医療、政治、教育など〜

    第6章:多種多様な世界観を結び合わせる 〜世界観のメタ分析〜

    第7章:自分自身を変容させる 〜統合的実践を始めるために〜

     

     

     

    経済、実存、愛、技術――人類の未来を歪めうる4つのボトルネック

    • 2019.06.08 Saturday
    • 06:46

     

     

     

     

    ※この記事は以前の記事「実存、愛、経済――人々を窒息させている3つの鎖」の続きです。お手数ですが、先にそちらをお読みください。

     

     

    以前の記事で、私は現代社会の根本的な問題として「経済」「実存」「」という3つの領域を提起し、次のような図を示しました。

     

     

    そして、この3つの領域に加えて科学技術(テクノロジー)の領域にも大きな問題があると思われるが、まだ個人的にあまり探究できていないことを述べました。

     

    しかしその後、こうした「技術」の領域についても少しばかり調査したので、この記事では、主に技術領域の問題に関して、みなさんと共有したい論点を述べたいと思います。

     

     

     

    もし統合的な未来を目指そうとするのなら、単に発達理論やインテグラル思想やスピリチュアリティを学び実践するだけでなく、社会全体のボトルネックとなっている個別具体的な問題も特定して対処していく必要があると思われますが、

     

    私の意見では、ウィルバーやインテグラル思想が得意とする「実存と霊性の問題」以外にも、少なくとも3つのボトルネックが存在しており、それは具体的には「経済とお金の問題」「愛と家族の問題」そして「科学と技術の問題」です。

     

     

     

     

    以下ではまず、科学と技術の領域に関して、共有したい論点を述べたいと思います。科学技術の問題はウィルバーやインテグラル思想においても言及されることはありますが、この領域には、もっと多くの課題が潜んでいるように思われるからです。

     

    どうして私たちは、環境問題や健康問題や原子力問題について、いつも神学論争のように意見を飛び交わせているのでしょうか?

     

    どうして私たちは、テクノロジーの発達によって社会全体の在り方が非民主的に変更されていくことを、当然のこととして受け容れているのでしょうか?

     

    どうして私たちは、科学技術とスピリチュアリティを相反するものだとみなすのでしょうか? 愛によってテクノロジーを発展させ、テクノロジーによって愛を深めることも、全く可能ではないでしょうか? 

     

     

     

    ...

     

    ...

     

     

     

    まず、これだけ科学技術が進歩したにもかかわらず、多くの人々が科学と技術に関する正確な理解をあまり共有できていないという問題が挙げられるでしょう。そしてこの問題は、一般市民側の科学技術リテラシーの問題(主体的な学習の不足)と、専門家側/体制側の科学技術コミュニケーションの問題(積極的な発信の不足)の両面から捉える必要があると思われます。

     

    科学技術とひとことで述べましたが、もちろん実際には、数学、物理学、化学、生命科学、地球科学、工学、農業、食品、建築、医療、薬学、歯学、統計学、論理学など、とても多くの領域が関係しています。とりわけ、環境問題や原子力問題など、どこか神学論争になりがちな問題は、複数の領域における高度な知見が必要とされる分野であることが多いように思われます。

     

    加えて、自然科学的な知と人文的な知が乖離しているという問題も挙げられるでしょう。現代において自然哲学という分野が衰退していることは、象徴的なことかもしれません(最近では「思弁的実在論」という分野が台頭しているようですが)。量子力学や自己組織化の深い衝撃も、あまり共有されているようには見えません。同時に、技術的仕事そのものの精神性や霊性という視点も、見失われがちであるように思われます。

     

    さらに、GAFAや軍産複合体の問題に象徴されるように、人々が技術に対する民主的な主導権を喪失しているという問題もあるように思われます。巨大テクノロジー企業の問題は単純ではありませんが、ミクロに見れば、コミュニティデザインやソーシャルデザイン、地域自給圏の形成など、技術との民主的な関わりを取り戻そうという試みは、確かに実践されているようです。

     

    最後に、近未来の科学技術および周縁化された科学技術に関する問題があるように思われます。後者の筆頭は、微細エネルギーの科学でしょう。これはもちろん、サトルボディの医学(気や経絡に関する医学)と密接に関わるものですが、直接的には、人体とは必ずしも関係のない外的なエネルギーとして、その法則や特性を研究・応用するものを念頭に置いています。

     

    近未来の科学技術ということに関して言えば、人工知能(自動運転、IoT、RPA)や認識操作系技術(VR、AR、MR、SR)など、経済効果がすぐ現れそうな研究ばかりが着目されがちですが(それは重要なことですが)、他にも進化分子工学(試験管内で進化のプロセスを人工的に再現する)やトランスヒューマン技術などが既にかなり研究されていることは広く知られるべきでしょう。

     

    もっと夢想的なところでは、Postgenderism(ポストジェンダリズム)やTechnogaianism(テクノガイアニズム)など、人間であることの生物学的/実存的条件を根本から変えうる未来技術の可能性についても、もし高次の社会を本当に語ろうとするなら、考慮する必要があると思われます。

     

     

     

     

    ともあれ、「経済」「実存」「愛」の3つの問題圏に、こうした「技術」の領域を追加したものが、以下の図です。技術の領域以外についても、多くのキーワードを追加・更新しています。

     

     

     

     

    どのキーワードも、各分野に通じている人からすれば、とくに新鮮味のない単語であるかもしれません。それどころか、単純化して捉えすぎであると思われることがきっと多いでしょう。

     

    それではなぜ、こうして多量のキーワードを並べているのか。

     

    それは個々の知識や領域に詳しくなってもらうためではなく(それも確かに重要ですが)、こうした複数の領域を同時多発的に変革することが必要であると私が強く感じているからです。

     

     

     

    例えば、仮に経済とお金の問題が一挙に解決し、高額ベーシックインカムがすぐに実現されたとしても、もし人々の実存や霊性が十分に深まっていなければ、「小人閑居して不善をなす」という諺のごとく、無秩序な社会となり、集合的にアノミーが生じてしまうかもしれません。

     

    しかし逆に、人々がお金を得ることに追い立てられているデフレ不況下では、活動(アーレント的な意味で)に深く参加することも、離婚やシングルペアレントの道を主体的に選択することも、オープンリレーションシップやポリアモリーのような時間と労力を要する愛の在り方を探求することも、実際面で困難が多いでしょう。

     

    あるいは逆に、人々の実存や霊性だけが深まっても、お金の根本問題が解決していなければ、格差が拡大してもっとひどい事態が起きるかもしれませんし、新たな実存を支える未来型テクノロジーを開発し、民主的に運用できていなければ、人々の内面的な苦悩が増大するだけかもしれません。

     

    あるいは、人々の実存や霊性が深まり、金融や経済の問題が解決し、科学リテラシー向上や未来技術への投資を進めたとしても、愛と家族の領域が適切に更新されていなければ、子どもの家庭格差はますます大きくなり、大人は愛や性や養育の在り方によって分断され、人々の歓びと慈愛の感情は自集団中心的/原理主義的なものへと極端化していくかもしれません。

     

    あるいは逆に、愛の領域だけが広く深くなっても、実存や霊性が浅薄なままであれば、その愛は恩着せがましく、独善的で、他者の苦しみや悲しみに対して鈍感なものであるかもしれません。 

     

     

     

    むろん、今挙げたのはほんの一例ですし、何より私見にすぎませんが、私がとくに――インテグラル思想や発達理論に親和的な人に対して――伝えたいのは、内在領域と超越領域を同時に視野に収めることの重要性であると言えます。

     

    上記の分類では、実存の領域が主に超越志向、愛と経済の領域が主に内在志向、技術の領域が半々といったところかもしれませんが、とえどんな分類によって領域横断的な思考をするにせよ、超越と内在の両方を包含しなければ――少なくとも超統合的な思考としては――かなり偏屈な見方になってしまうと思われるからです(そしてこの主張はもちろん、テリー・オファロンの発達論を手がかりにしたものです)。

     


     

    ...

     

    ...

     

     

     

    最後に、以前の記事の末尾で述べた文章を少し言い直して、終わりにしたいと思います。

     

    自分たちでつくり上げたお金のシステムに使われるのはこのあたりにして、世を経(おさ)め、民を済(すく)い、科学と技術の潜在的可能性を最大限に活かしながら、本物の内在と本物の超越に満ちた世界を、この惑星に、そしてこの宇宙に、一緒に創り上げていきませんか?

     

     

     

     

     

     

     

    〔関連記事〕

    実存、愛、経済――人々を窒息させている3つの鎖

    経済、実存、愛、技術――人類の未来を歪めうる4つのボトルネック

     

     

    テリー・オファロンの発達論 2. コーザル・フロアの諸段階を概観する

    • 2019.01.19 Saturday
    • 20:18

     

     

    過去の記事に引き続き、テリー・オファロンの発達論について紹介していきます。

     

    前回、単に内面と外面を1つの有機的な全体へと統合できるだけでなく、創造的深淵としての空性にも少しずつ触れられるようになる段階(Construct-Aware)というのが、実は「発達の終わり」どころか、新たな発達の「始まり」であることを述べました。

     

     

    そしてその新たな発達とは、超越-内在の統合へ向けた旅であり、

    「超越と内在の一方のみを見る」(only one side, Construct-Aware)

    「超越と内在の両方を見て一方を選ぶ」(either/or, Catalyst)

    「超越と内在の両方を見て両方を選ぶ」(both/and, Unitive)

    「超越と内在の両方を1つの全体へとまとめ上げる」(integration, Illuminative)

    という4つの段階を経て進んでいくとされます。

     

     

     

     

    さて、それでは、コーザルフロアの各段階とは具体的にどのような段階なのでしょうか?

     

    以下では、同じくオファロンの論文を参照しながら、コーザルフロアの4つの段階(Construct-Aware, CatalystUnitiveIlluminative)の特徴を簡単に紹介していきます。

     

    (なお、高次の段階になればなるほど、人々が今まさに開拓している段階であるゆえ、描かれる特徴は不確定性の大きいものとなります。以下の段階は我々が到達しうる1つの未来ではありますが、その具体的内容は全く決まっていないのです)

     

    (以下の文章は「Terri O'Fallon(2010) The Evolution of the Human Soul」の一部拙訳です。省略、及び、かなり意訳したところがあります。正確には原文をご参照ください。また、画像と太字は私が追加したものです)

     

     

     

     

     


     

    1. Construct-Aware(構築自覚的段階)

     

     

     構築自覚的段階では、5人称的視点への移行が起きる。それまでの段階では、以前の視点を対象化しうる新たな視点をもつという過程によって、順次、視点が後退していったのだが、構築自覚的段階への移行においては、それとは異なる種類のことを認識するようになる。以前の視点を対象化する視点をもつことで視点が後ろに引き下がるというこの過程そのものが、実際のパターンとして見えるようになるのである。「鏡の間」そのものを認識することによって、視点の対象化を何処までも続けられるようになる。スザンヌ・クック=グロイターは、この段階をn人称的視点と呼んでいる。

     

     そのような多重ループ構造を実際に心的なヴィジョンとして把握することによって、この新たな視点を体験する人もいれば、自分自身の感情が多重ループしていることにかなり非言語的な仕方で気づくことによって、この新たな視点を体験する人もいる。

     

     

     5人称的視点は、投影が起こっていることに「その瞬間に」気づくという体験を通して、現れることが多い。目撃者の視点が活性化され、投影作用が生じた瞬間にそれを自覚することができるのである。自己の外部にあるあらゆるものについての判断と思考は、最終的には、自己の内側にあるものが投影されたものだと認識されるようになる。知性と感情が様々な想いや物語や判断をつくりあげているということが、巡りめぐって、自分自身の内面において自覚されるのである。

     

     やがて、微細〔サトル〕な自我の存在を認識するようになると、サトルフロアのなかでは堅牢なものに思われたあらゆる概念は、絶えず変わり続ける物語、微細な知性によってつくられた構築物、実際には存在しない幻想として感じられるようになる。この認識によって、実存的な不安と苦悩がもたらされることも多い。なぜなら、具体的なものであろうと微細なものであろうと、堅く確かなものであると思っていたあらゆるものが、もはやリアルなものとして感じられないからである。具体的なものも、微細なものも、もはや構築自覚的段階の人たちを支える「基盤」にはなり得ないのである。

     

     

     認識される時間の幅はさらに伸び、多数の世代にわたって様々な構築物と物語が継承されていくことに、瞬間的に、そして歴史的な視野から、気づけるようになる。認識される空間の幅もさらに拡大し、惑星を超えて、リアリティの感覚は宇宙全体へと広がっていく。

     

     構築自覚的段階の人たちの内的世界と外的世界は素晴らしく広範であるが、それでもなお、目撃者は観察を続けている。この洞察が深まり、微細な自我の存在にも気づくようになると、自らの傲慢さや思い上がりについて心配するようになり、本物の謙虚さが現れ始める。

     

     

     フィードバックは非常に有用でありうるが、新たな色調を帯びている。自分自身(と他の人たち)があらゆるものを構築しているということを認識しているのに、一体どのようなフィードバックを真面目に受けとればよいのだろう?こうした難問のなかで、シニシズムや懐疑主義が現れることもある。

     

     さらに、この段階はコーザルフロアの初めての段階でもあるために、突然、津波に呑みこまれたかのように感じられることも多い。自らが認識している様々な構築物に優先順位をつけることが未だできないのである。かつては「自分自身」だと思っていた微細なものや具体的なものを喪失するなかで得られたこの複雑な洞察を、一体どのようにして、正しく理解し、活用していけばよいのだろう?

     

     

     この段階の人たちは、目撃者としての視点が絶え間なく瞬間的に活性化されるために、自分の話す言葉がまさに口から出ていこうとするさまを注意深く観察することができる。それはあたかも、自分の話した言葉がすぐに反響して聞こえてくる粗悪な電話機で話しているかのようである。言うまでもなく、首尾一貫して話すことは難しくなる。しかしこれは、目撃者の視点を常に活性化させようとし始めているという兆候でもある。加えて、自らの投影作用についても話し始めるようになる。どのような判断や識見を主張した後であっても、それは自分自身に対しても同じように当てはまることであると付け加えるのである。ここではまた、物事をあくまでも今この時点での物語として述べる傾向にある。

     

     さらに、構築自覚的段階の人たちの言葉は、社会的に適切なものへと消毒されずに発せられることがある。あまりにも今ここの瞬間に在るために、かつては表面下に存在していても未然に発話を阻止されていた言葉が、生々しいままで衝動的に発せられるのである。

     

     加えて、自らの傲慢さやエゴイズムについて心配していると述べたり、自らのエゴ〔自我〕を認識することについて話したりするようにもなりうる。と言っても、自分がどのようなエゴについて話しているのか(微細な自我)、あまり理解していないかもしれない。構築自覚的段階の人たちは、エゴについて話すように促されると、スピリチュアルな物質主義に言及したり、複雑な心理学的洞察を述べたり、自らの洞察や自分が知っていること全てについての傲慢さのことを話したりするかもしれない。他の人たちが理解できないことを自分は知っているということに、さらにはそうした高度な理解に対する信用を得たいという微細な自我の願望を自覚しているために、傲慢さを感じるのである。それゆえに、この段階の人たちは、複雑な問題に対処していくための自分の能力を過小に評価することがある。

     

     

     構築自覚的段階の人たちには、二度目の暗夜である「魂の暗夜」を通り抜けることを支援することが効果的でありうる。微細なスピリチュアリティの生活を行なっていた部分にぽっかりと穴が開いてしまっているからである。かつて、外交官的段階〔アンバー〕の神話的で具体的な神の愚かさを見てしまったときに味わった感情を思い出すかもしれない。しかし今回は、微細な段階でつくられた幻想や作り話の虚構性も見抜いているのである。

     

     この段階の多くの人たちにとって、このぽっかり開いた穴が「神性」の新たな顏であることを認識することは容易ではない。なぜなら、こうしたことは以前に体験したことがないうえに、大きな喪失感を抱いていうるからである。

     

     さらに、この段階の人は非常に少ないために、このストレス多き場所について理解してくれる人がほとんどいないことが多い。標準的な移行のプロセスであるにもかかわらず、当人にとってもそのようには感じられず、周りの人たちにとってもそのようには見えないかもしれない。実際、この段階の人たちは、ときに、自分の気が狂ってしまったのではないかと思うことがありうる。

     

     

     構築自覚的段階の人たちは、このようなプロセスが、そして魂の暗夜の痛みが、前に向かうための自然なステップであることを知ることで、大きな安心感を得ることができる。そうした支えがあることで、緊張を緩め、この混乱と複雑性のなかに幾らかのユーモアを見出せるようになりうる。

     

     この段階の人たちにとって、神性は喪われてしまったのではなく、新たな顏を見せているのだということを、そしてこの新たな「神性」の体験に自らを開いておくのがよいということを、誰かに指摘してもらえることは大きな助けになりうる。

     

     かつて、祈りや黙想の実践は、静寂を見つけ出すうえで非常に有益であった。外交官的段階〔アンバー〕においては具体的な思考を、専門家的段階〔アンバー/オレンジ〕から戦略家的段階〔ティール〕に至るまでは微細な思考を飼い慣らし、そして空じたのである。今や、この構築自覚的段階において、空性は、目覚めているときの生活のなかにも普通の体験として少しずつ浸透しつつある。構築自覚的段階の人たちは、静謐な目撃者の視点に含まれる豊かさに徐々に親しむようになり、目撃者の視点を活性化させている時間がますます長くなる。それは神の新たな顏であり、今や、一瞬一瞬、自分たちに付き従ってくるのである。

     

     この段階への入り口でぽっかりと開いた穴は、幾つかの段階を経て、この絶え間なく続く「神性なる静寂」へと姿を変える。全ての人類が日々の生活のなかで演じている全ての幻想を抱擁しうると強く感じるようになり、この幻想や構築物をよりよい世界をつくるための道具としてどのように使えばよいのかについて、考えが浮かぶようになる。

     

     構築自覚的段階に入りつつある人たちは、このような性質を聞くことで、大きな自由と解放を得ることができるかもしれない。自らの直面している混乱が、やがては超えていく標準的なプロセスであるということをただ知っておくだけでも、信仰心を回復し、刺激を得て、スピリチュアリティある生活を続けていくことができる――自らの知性が、何度もループする制御不能なほどの野蛮さを飼い慣らし続けることで利益を得ていると、また気づいたとしても。

     

     

     

    2. Catalyst(触媒的段階)

     

     

     触媒的段階では、以前の諸段階でも見受けられた「優先順位づけ」のパターンが新たな形で繰り返される。構築自覚的な視点が徐々に内面化されていくなかで、全ての物語が構築物〔虚構〕であるとしても、幾つかの構築物は他の構築物よりも相対的に有益であることが認識されるようになるのである。触媒的段階の人たちは、様々な構築物に対して優先順位をつけ、個々の状況や人々に与える影響を比較することで、特定の構築物を選びとることができる。もちろん、それらの人々のほとんどは、その物語が構築物であることを未だ認識することはできない。

     

     この段階にいる人たちは、「境界線を跳び越える能力」や「境界線の外に出る能力」というより、「境界線そのものを移動させる能力」をもっている。なぜなら、境界線そのものもまた構築物であり、それゆえ変化させられるものであることを認識しているからである。

     

     

     この段階は、各フロアにおける対極性パターンの2番目に相当し、対極性のどちらか一方の極を選べるようになる段階である。

     

     コーザルフロアにおける支配的な対極性は超越と内在であるため、触媒的段階の人たちは内在の極(内面と外面, 心と体を統合する極)を生きることを選択するかもしれない。身体に根差した生活を送り、自らの感情を複雑化させていくのである。別の人たちは、より超越的なアプローチを選択し、自らの知性を複雑化させていくかもしれない。思考の多重ループを内省し、目撃者にとどまることを試みるのである。

     

     このようにして、超越と内在のどちらの在り方を実践することもできるのだが、両方を同時に尊重することは未だできない

     

     

     触媒的段階の人たちは、効果をあげてくれそうな多くの構築物〔虚構〕を寄せ集め、それらをとても驚くような仕方で統合するようになる。典型的なアイデア、概念、アプローチなどを、継ぎ目なく織り合わせ、迷宮のように複雑な全体へとまとめ上げることができる。元となる概念はユニークでなくとも、それらを織り合わせる方法、及び、複雑さをまとめ上げていく能力が実に驚異的なのである。

     

     触媒的段階の知恵を称賛する人たちでも、多くの人は、その統合された全体に含まれる豊かさと複雑さをほとんど理解することができない。そのため、触媒的段階の人たちの思いや感情は、周りには認識されず、ときに誤解され、ひどく孤立してしまうことがある。

     

     このような複雑で目まぐるしい状態が、かなりの期間にわたって続くことも多い。「触媒的」という標語はこの段階をうまく表している。なぜなら、この段階では、外的な活動を爆発させ、ほとんどの人々をひざまずかせてしまうほどの複雑なアプローチを適用していくことも多いからである。

     

     

     時間と空間に対する認識は、以前の段階と同じく、歴史的であり、間世代的である。触媒的段階の人たちは、歴史的な時間スケールを保持しながら、しかし同時にその時間スケールの視点に限定されていることを自覚しながら、複雑な構築物をまとめ上げていくことができる。

     

     この段階の人たちは、種々の複雑な構築物に対して優先順位をつけていくことに大きな自信を抱いているために、自らが与えようとしている複雑さへの理解が足りないと感じたならば、フィードバックを受け入れないかもしれない。

     

     

     触媒的段階の人たちはとても流暢に言葉を使う。そのため、彼/彼女らが驚くべき知性をもっていることにほとんどの人がすぐ気づくにもかかわらず、その特長が何であるのかをすぐに指摘することはできないかもしれない。

     

     この段階の人たちの言語は、複雑で、生き生きとしており、しばしば、遊び心に満ちている。ほとんどすべての人への思いやりと真心と気遣いがあり、ほとんどすべての人に対して話しかけるという超人的な仕方で語り、しばしば、意識に浮かぶ思考や感情やイメージをただ流れるように述べていくという「意識の流れ」式の語り方をともなっている。

     

     しかしながら、自らが好んでいる特定の複雑さを理解していることへの自信が、他の人たちにはとても傲慢に見えることがある。自らの選択を強く確信しており、ときに、自分と同じやり方を行ってくれないならば全く参加しなくてよいと述べることもある。このことは、他の人たちにとっては矛盾しているように見えうる。なぜなら、他の面では並外れて思いやりのある人物であり、極めて多種多様な仕方で世界によいものを与えようとしているからである。ただ、個人的な領域においては、周りのために自らの恵まれた才能を活かそうとしないかもしれない。

     

     このような態度が生じるのは、触媒的段階の人たちは非常に高度な選択を行わなければならないからである。超越と内在の両方を認識しうるにもかかわらず、両方を同時に抱えておくことは難しく、どちらか一方を選ぶことが多い。

     

     

     普段から安定して目撃者にとどまれるようになっているため、典型的なスピリチュアリティの実践にはあまり重きが置かれなくなる。かつては坐を組んだり黙想したりすることで行っていた実践は、今や目覚めているときの生活全体に浸透しており、自らの複雑な知恵を世界に捧げようとするときにも、よどみなく、目撃者の視点を持続させることができる。

     

     外交官的段階では、瞑想や黙想や祈りの実践は、五感を飼い慣らし、満足を延期させるために用いられた。サトルフロアを通して微細〔サトル〕な知性や感情が現れるようになると、そうした実践は、微細な知性を飼い慣らし、静寂の状態をつくることに役立つようになる。そして、このコーザルフロアでは、コーザルな沈黙と静寂は、一時的な状態ではなく、普段の生活における状態になり始める。

     

     構築自覚的段階では、目撃者の視点を途切れされないことに多くの労力を割いていたが、触媒的段階へと移行するなかで、やがて散発的ながらも、沈黙という基盤が存在することに気づくようになる。そのような移行をしつつある人に対しては、渦巻きの下にある静けさへと注意を向け、日々の活動や人生の複雑性の下にある沈黙の基盤を絶えず意識するように励ますことが効果的でありうる。

     

     触媒的段階においても「魂の暗夜」は続きうるが、こうした沈黙の基盤が現れ、複雑な争いのなかで神の新たな顏――常に現前する新たな顏――が組み立てられていくにつれて、徐々に消滅していく。

     

     

     

    3. Unitive(一体的段階)

     

     

     一体的段階では、6人称的視点をとることができる。触媒的段階においてハリケーンのごとく吹き荒れていた複雑な知性の外側に立ち、嵐が渦巻いていても台風の目にいるかのごとく静止していることができる。複雑性のなかに住んでいながら、その複雑性を手放すことができるのである。自らの存在と生の隅々にまで、深い平穏、受容性、内的な静寂が浸透するようになるのは、この段階である。

     

     この段階の人たちは、超越と内在という対極性の双方を、一つに結びつけることができる。ある中間点を基準にしながら、超越と内在の双方を、同時に尊重していくのである。一体的段階の人たちは、宇宙全体の広大さと、子どもに新たな靴が必要であることを、たった一息で同時に認識し、心に抱くことができる。誰一人として別のものへ変化させる必要はなく、ありのままの生を深く受容するというのが、この段階での主要な存在様式である。

     

     

     時間は永遠なるものとして、空間は無限なるものとして体験される。コーザルな沈黙と静寂は、この段階の人たちの生そのものの中に浸透している。コーザルな叡智を覆い隠すものがほとんどなくなっているため、ときどき、噴火するがごとく突然に、「一度に全てを知る」式の認識が訪れることがある。そうした認識は自ずから生じ、どこから来たものなのか、はっきりとした感覚はない。

     

     この段階の中心期にいる人たちは、自己が存在しなくなったかのように見える。普遍的なレベルで生命に対する驚きと感謝の念を抱くようになり、宇宙規模で相互につながり合っているという感覚が、ごく平凡なことであるという感覚とともに訪れる。かつては一時的な状態であったコーザルな状態が、普段の生活のなかへと浸透し、もはやときどき起こる出来事ではなく、生そのものになったのである。

     

     フィードバックは、適切なものであれば、派手に誇示することもなく、容易に、気楽に受け入れることができる。一般的に言って、この段階には軽快さがあり、情動や感情が極端に走ることはない。瞑想を行うことで到達していた「一体的」な状態は、今や、日々の生活における通常の体験になったのである。

     

     

     一体的段階の人たちは、対極性の双方を一つものとして一体化させて語るために、そしてまた、広大な空間と時間を表現するために、ユニークで生き生きとした比喩を用いうる。この段階の人たちは、互いに対照的なさまざまな段階やタイプの間に、万華鏡のように橋を架けることができる。

     

     さらにまた、意味を構築することへの死にもの狂いの欲求に巻きこまれることなく、その外側に立つことができる。あらゆるものはそうあるままで完璧なのである。

     

     この段階は6人称的視点の前期の段階であるため、自らの内面にまた新たな種類の視点を統合すること、宇宙の揺り椅子においてまた後方に揺れ戻ること、神の新たな顏をまた見つけ出すことが必要な時期でもある。

     

     一般的に言って、この段階の人たちは「魂の暗夜」から抜け出したところであり、ここを「慰めの段階」であるとみなすかもしれない。それはトランスパーソナルな段階であり、そこでは、コーザルな魂が穏やかに安らぎ、かつて瞑想と黙想と祈りのなかで出会ったものが、目覚めているときの自然な状態として実現されているのである。

     

     

     

    4. Illuminative(照明的段階)

     

     

     一体的段階よりも後の段階を想像することは容易ではない。照明的段階では、内在のなかに超越がもたらされて、超越と内在が完全に一つのものになる。この段階は、次のフロアであるノンデュアルフロアへと移行する前の最後の段階でもある。この段階はまた、「揺り椅子」又は優先順位づけのパターンで言えば、前へ前へと進んでいく活動的な段階であり、後ろに下がりがちであった一体的段階とは対照的である。そしてまた、6人称的視点の後期の段階でもある。

     

     照明的段階の人たちは、あらゆる空間と時間において、多種多様な分野にまたがって、発達の全歴史を行ったり来たりすることができる。フロア横断的なパターンへの認識が、自ずから湧き出してくることもある。一人一人の人間のなかに息づいている人類共通のパターンを徐々に認識しうるようになるが、ここでもまた、地図やパターンの認識は、天空からやってくるように感じられる。

     

     だが、この段階でのパターンづけの仕方は触媒的段階でのパターンづけの仕方とは異なる。照明的段階におけるパターンは、表面的にはシンプルに見える。しかし、時間をかけて奥深くまで潜りこんでみると、そのなかには、何らかの形で宇宙全体が含まれているのである。

     

     さらにこの段階の人たちは、〔触媒的段階のように〕すでに存在している様々な地図を統合するということはしない――もっとも、すでに存在しているものはみな、彼/彼女らの内部にあるけれども。照明的段階の人たちは、常に存在していたものをつかみとり、それを新たな仕方で認識することによって、意識をとらえるための方法を定義しなおすのである。

     

     照明的段階の人たちの地図は、内面にあり、彼/彼女らが内在的な行動をおこなうことで表現されるものであるかもしれない。あるいは、それは哲学的な地図であり、多数の人々の発達を支援するものであるかもしれない。

     

     こうした地図をどのようにして思いついたのかについて尋ねられると、照明的段階の人は、何の警告もなくただ突然にやってくるのだと答えることがある。実際、ときに、一冊の本が、頭のなかではほんの数分間で書き終えられてしまうということがありうるのだから。

     

     

     このコーザルフロアの最後の段階において、直観が爆発的に湧き出てくるとき、それは具体的なもの(例:他の人たちの病気を知る)でありうるし、微細なもの(例:天啓として地図を受けとる)でもありうる。

     

     この種の体験は、他の段階でも同じように起こることがある。だが、より初期の発達段階では、直観によって受けとる情報は微細なものよりも具体的なものになりがちであり、そしてまた、そうした直観を、自らの才能のために手にしたものであると思いがちである。

     

     照明的段階の人たちは、自分自身を、情報を受けとるための「器」のようなものだとみなす傾向にある。それは、自分自身が所有する才能ではないのである。この段階の人たちは、話をしているときでも、流れるように口から情報が湧き出てくるのであり、自分が話しているというよりは、話の内容が自分たちのほうを通り過ぎていくように感じる。

     

     しかし、こうした体験を「チャネリング」と混同してはならない。なぜなら、照明的段階の人たちは、自分たちが何をするのか、なぜそれをするのか、そしていつそれをするのかを認識しているからである。

     

     

     この段階は非常に多産な段階であり、ここに到達した人々はヴィジョナリー〔先見の明のある人間〕であると見られているかもしれない。だが、照明的段階の人たちは、自らの知識を誰かと分かち合うことにはオープンであるにもかかわらず、社会とは距離を置いて隠遁的な生活を送っているということや、特に目立たずに過ごしているということがありうる。この段階の人は非常に少数であるが、しかし確かに、この段階は存在するのである。

     


     

     

     

     

     

    以上、オファロンによるコーザルフロアの諸段階の説明(を私が大雑把に訳したもの)でした。

     

    内容は非常に高度なものであり、発達論に慣れている人でさえ、かなりぶっ飛んだものに感じるかもしれません。とはいえ、これは必ずしも「そんなものに触れたことはない」というような段階ではなく、例えば私の直観では、ウィルバーの代表作『進化の構造』は(意識構造の発達という観点から見れば)主にCatalyst段階の視点に基づいて執筆された本であるように思われます。

     

    あるいは、『眼には眼を』『構造としての神』『グレース&グリット』など、いわゆる「ウィルバー3」の書籍群は主にConstruct-Awareの視点や感性から書かれたものであるようにも見えます。

     

    他方――こちらは高次の段階すぎて個人的にもあまり確信はもてませんが――『ワン・テイスト』などは主にUnitiveの視点、『インテグラル・スピリチュアリティ』などは主にIlluminativeの視点から書かれているように見えなくもありません。さらに最近の本は...??

     

    もっとも、こうした分析は全て私の個人的な直観なので、話半分で聞いていただいたほうがよいかもしれませんが、「Catalystの地平において『進化の構造』と対等に話せるようになる」というのが、ここ数年ほどの私がずっと抱いている直観ではあります。

     

     

     

    ウィルバー以外でも、主にConstruct-Awareの視点から書かれたように見える本は多く、例えばA Guide to Integral Psychotherapyなどは秀逸な書籍だと思われますが、他方、Catalystやそれ以上の視点に基づいていると思われる(少なくとも私がそう推定できる)書籍は多くありません。

     

    数少ない例の1つは、シンディ・ウィグルスワースのSQ21という書籍で、これはCatalyst段階あるいはそれ以上の視点に基づいて執筆された本であると私は見ています。そしてもちろん、今紹介しているオファロンの諸論文も、その例の1つです。

     

    なお、言うまでもなく、これらは全て、意識構造(≒自我の中枢的な能力)という観点に限って見たときの話です。実際には他にも無数の評価軸が存在しているので、サトルフロアだろうと何だろうと、素晴らしい本はたくさんあるし、素晴らしい人はたくさんいます。

     

    逆に、コーザルフロアだろうと何だろうと、健全な在り方や不健全な在り方、秀逸な現れ方や凡庸な現れ方(例えば不健全なCatalystや凡庸なCatalyst)が存在するのであり、手放しで称賛することはできません。

     

     

     

    にもかかわらず、私がこうした高次の段階について長々と紹介しているのは、人類やコスモスの未来を好ましい方向へと向け直すには――意識構造の先端度で貢献する人にとっては――Construct-Awareでは不十分であり、Catalystあるいはそれ以上の視点に立てることが必要であると強く感じているからです。

     

    やや挑戦的な言い方をするなら、私の考えでは、Construct-Awareはまだウィルバー3であるゆえに、『進化の構造』(ウィルバー4)の知恵を十分に使いこなす(そして対等な地平から建設的な批判を加える)ことができないのです。

     

    とはいえ、たとえそうであったとしても、Construct-Awareの先へと進んでいくための最良の方法は、Catalyst段階の在り方を見かけだけ真似することでは決してなく、Construct-Awareとしての課題に誠実に向き合うことではありますが、

     

    にもかかわらず、もっと高次の段階についての大まかなイメージをもっておくことで、「新たに創発してくるもの」に自然と気づきやすくなるでしょう。

     

     

     

     

    ようこそ、コーザル・フロアへ。

     

     

     

    (続く)

     

     

     

    〔関連記事〕

    テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

    テリー・オファロンの発達論 2. コーザルフロアの諸段階を概観する

     

     

     

    スザンヌ・クック=グロイターの自我発達理論(論文全訳)

    • 2018.12.24 Monday
    • 00:12

     

     

     

     

    スザンヌ・クック=グロイター自我発達理論に関する論文の邦訳版を正式に公開しましたので、ここでもお知らせさせていただきます。

     

    「自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階」(2018, 門林 奨訳)

    http://integraljapan.net/pdf/articles/JTA2018EgoDevelopment.pdf (PDF版)

    http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm (Webページ版)

     

     

     

    以下の紹介文にも書きましたが、私がこの論文を邦訳公開したのは、「日本語でも、無料で、発達理論に関する"これくらいの情報"には触れられなくてはならない」という強い思いがあったからでした。

     

    詳しくは下記の文章をお読みいただきたく思いますが、この邦訳論文を通して、一人でも多くの人が、発達に関する理解を深められることを願っています。

     

     

     

    ---------------------------------

    自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階

    (スザンヌ・クック=グロイター著, 門林 奨 訳, 日本トランスパーソナル学会, 2018)

    (原論文:Susanne Cook-Greuter(2005). Ego Development: Nine Levels of Increasing Embrace)

     

     

    訳者による紹介文

     

    よく知られている通り、ウィルバー思想やインテグラル理論の中核には「発達」という視点が存在しています。確かに発達理論の全体像を把握するうえでは、ウィルバーの書籍を読むことは有益ですが、それだけでは、発達理論そのものを十分に理解したとは必ずしも言えないでしょう。

     

    近年では、発達理論に関する英語書籍(例えばロバート・キーガンの著作)が翻訳されたり、日本人によって書かれた成人発達理論に関する書籍(例えば加藤洋平氏の著作)が出版されたりと、発達理論に関する日本語の文献は増加しつつあります。

     

    しかし現状、発達理論に関する日本語文献は、ビジネス領域への応用という文脈で紹介されたものが多く(それ自体はよいことですが)、こうした切り口で発達理論を学ぶことは、ウィルバー等を通して内面的ないし精神的な探求を行おうとする際には、「物足りなさ」の残るものであるとも思われます。

     

    そうした事情の中で、今回、スザンヌ・クック=グロイターの自我発達理論(Ego Development Theory: EDT)に関する論文の邦訳を公開いたしました。

     

    発達理論に関する上述のような既存の日本語文献と比較して、この論文の特長を挙げるなら、

     

    1. 各段階の内面的特性に関する記述が充実している(例えば防衛作用、恐れ、世界観など)

    2. 高次の段階についての記述が充実している(自律的段階、構築自覚的段階、一体的段階)

    3. ウィルバーの「アンバー段階」が2つに分けられている(順応的段階と自意識的段階)

     

    などのことが言えるでしょう。他にも、読者によって様々な着眼点がありうると思います。

     

    もちろん、本論文を読んだだけで発達理論の熟達者になれるわけではありませんが(あるいは「発達」が保証されるわけでもありませんが)、ウィルバーの本の中でも、ビジネス志向の発達理論書の中でも明文化されていなかった数多くの観点や洞察に触れることができると思われます。

     

    しかし何より、私がこの論文を邦訳公開しようと決めたのは、「日本語でも、無料で、発達理論に関する"これくらいの情報"には触れられなくてはならない」という強い思いがあったからでした。

     

    本邦訳論文を通して、一人でも多くの人が、発達に関する理解を深められることを願っています。

     

     

     

    なお、参照のため、本論文における主要な発達段階と、ウィルバーが使用する「色」の大まかな対応関係を以下に示します。ただし、ティールより後、及び、マジェンダより前の段階については、対応関係が必ずしも明確ではないため、省略しています。

     

    クック=グロイターの自我発達理論

    ウィルバー

    一体的段階(Unitive)

     

    構築自覚的段階(Construct-Aware)

     

    自律的段階(Autonomous)

    ティール

    個人主義的段階(Individualistic)

    グリーン

    良心的段階(Conscientious)

    オレンジ

    自意識的段階(Self-Conscious)

    アンバー、あるいは特に「アンバー/オレンジ」

    順応的段階(Conformist)

    アンバー

    自己防衛的段階(Self-Protective)

    レッド

    衝動的段階(Impulsive)

    マジェンタ

    共生的段階(Symbiotic)

     

     

     

     

    <論文はこちらから読めます>

    PDF版: http://integraljapan.net/pdf/articles/JTA2018EgoDevelopment.pdf

    Webページ版: http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm

    紙媒体:『トランスパーソナル学研究 第15号』(日本トランスパーソナル学会, 2018)

     

     

     

     

    実存、愛、経済――人々を窒息させている3つの鎖

    • 2018.07.02 Monday
    • 19:41

     

     

     

     

    現代の日本社会にどこか閉塞した空気が漂っていることは、よほど鈍感な人や恵まれすぎた人でなければ、おそらく多くの人が同意するでしょう。

     

    それは"空気"だけでなく、自殺犯罪の発生、実質賃金の低迷貧困家庭の増加といった外的事実として顕在化しています。

     

     

     

    けれども、その原因は何でしょうか。個別的には様々な原因が絡んでいるでしょうが、現代社会の閉塞性の最も中核にある原因とは、いったい何なのでしょうか。

     

     


    ぼんやりとテレビや新聞に接している人々が、なんとなく雰囲気として感じとっているのは、こんな理由づけかもしれません。

     

    少子化だから」

    成長の時代は終わったから、お金がないから」

    「生活のスピードが速くなりすぎて(利便性に頼りすぎて)、人々の心がすさんでしまった(他者や地域との交流を失ってしまった)から」

    「理由もなにも、いつだって社会はこんなものだよ」

     

     

     


    しかし、これほど重大な問題を、なんとなくの雰囲気で片づけるわけにはいきません。

    私が5年ほど探究した限りでは、その原因は大きく3つ(か4つ)に分けることができます。

     

     


    おそらく、最も大きいのは、経済とお金の問題です。

     

    考えてもみてください。

     

    どうして私たちは、これほど技術が進歩したのに、朝から晩まで馬鹿みたいに働いているのでしょうか?ちょっと子どもが減っているとか、老人が増えているとか、そんなレベルの話ではないと思いませんか?

     

    どうして政府は、それも世界中の多くの政府が、莫大な額の借金を抱えているのでしょうか?ちょっと無駄遣いをしたとか、成長が停滞しているとか、そんな種類の話ではないと思いませんか?

     

    どうして世界の上位8人が、世界の下位50%と同じだけの資産をもっているのでしょうか?彼らは本当に、それだけの社会的価値を世界に提供したのでしょうか?

     

     


    端的に言えば、無知惰性誤った推論に基づいて、日本、そして世界の経済は運営されつづけているのです。

     

    加えて、お金のシステムそのものが全く公正ではありません

     

    一般的に言えば、若い世代であればあるほど、この問題による悪影響や実害は大きいですが、近年その悪影響は様々な年齢や境遇の人に波及しつつあり、何かがおかしいと感じ始めている人は着実に増えていると思われます。

     

    もっとも、その疑問をきっかけに、本質的な理解に至るまで学習を重ねている人は稀ですが...

     

     


    では、お金をそれなりに持てている人はだいたい幸福かというと、

     

    物質的な面、ないし金銭で交換可能な面においてはそうでしょうが、内面の豊かさや真正性、幸福の深さや持続性や安定性という点では、多くの場合にそうとは言えないように思われます。

     

    つまり、経済とお金の問題は極めて深刻ですが、同時に、それだけには還元しきれない内面や心身の問題も深刻なのです。

     

     

     

    端的に言えば、人々の「実存」及び「」(と私が名づけている領域)が、古臭いままで全く洗練されていないか、あるいは、昔よりずっと偏狭なものになっていると思われます。

     

    私たちの思考内省の在り方、他者との対話交友の在り方、真理の探求の在り方、そして未知に対峙する在り方は、とても粗雑で、あるいは近視眼的で、あるいは注意散漫なものだと思いませんか?

     

    私たちの性愛恋愛の在り方、家族養育の在り方、幸福よろこびの在り方、そして友愛協働の在り方は、とても因習的で、あるいは即物的で、あるいは縁故主義的なものだと思いませんか?

     

     

     

     

     

    ...とはいえ、詳細はこの記事だけではとても述べきれないので、各領域ごとに、いくつかのキーワードと、参考になると思われる国や文化を挙げておきたいと思います。

     

     

     

    〔注1〕なお、これらに加えて、科学技術ないし「テクノロジー」の領域にも大きな問題があると思われますが、私自身があまり探究できていないのと、上記3つの中に適宜組み込めなくもないという観点から、省略しています。

    〔注2〕上記に記したのはあくまで「キーワード」であり、実現したい内容だけでなく、克服したい内容や、広く普及すべきかはともかく観点として重要だと思われる内容も含まれています。

     

     

     

     


    なお、各領域におけるキーワードを4段に分けたのは少し意味があって、

     

    経済の領域で挙げたキーワードは、それぞれ、主に財政の根本に関するもの(通貨発行権、政府紙幣、日銀の国債引き受け)、格差拡大の根本に関するもの(金融資本主義、ピケティの不等式、資本所得課税)、通貨システムの根本に関するもの(信用創造、債務貨幣システム、公共貨幣)、労働と所得の根本に関するもの(ベーシックインカム、国民配当)となっています。

     

    実存の領域におけるキーワードは、私が最も重大な喪失であると考えているもの(究極的関心〔ウィルバー/ティリッヒ〕、スピリチュアル・インテリジェンス(SQ))、既に心理学の世界で扱われているもの(マインドフルネス、リフレ―ミング、瞑想)、哲学の大家たちが重視しているもの(パレーシア及びアスケーシス〔フーコー〕、崇高〔カント〕)、理性と霊性の協調をとくに示唆するもの(哲学的信仰、公共神学、宇宙的宗教)となっています。

     

    また、愛の領域におけるキーワードは、主に性愛の在り方に関するもの(フロー・セックス、サトル・ボディ、"気"の交流)、家族の形態に関するもの(日本型近代家族、アロペアレンティング、婚外子/特別養子縁組)、恋愛の形態に関するもの(事実婚/シビル・ユニオン、オープン・マリッジ/ポリアモリー)、民主的市民としての在り方〔異なる他者との友愛の在り方〕に関するもの(活動〔アーレント〕、熟議民主主義)となっています。
     

     

     

     

    さて、このように非常に異なる領域のものを並べると、おそらく興味を持てないものや、いぶかしく感じるものもあるかと思いますが、是非、今の自分の心に引っかかるものだけでも、調べてみてほしいのです。

     

    Googleで、あるいはAmazonで(Google検索だけだと偏った情報や表層的な情報にしかたどり着けないことも多い)、あるいは書店や図書館の情報システムで、検索してみてほしいのです。

     

    きっと、様々な関連書籍が出版されていること、様々な人が関連情報をウェブ上で発信していること、様々な関連イベントが開かれていること、そしてときには関連プロジェクトが既に進められていることに気づくでしょう。

     

    たとえそこで出会った考え方や思想に同意できなくても、あるいは何とも判断しかねるものだと感じても、こうした根本的な論点を自分の中に懐胎させておくことは、自らの潜在的な器を大きく広げ、未来に起こりうる変容を、より包括的なものにしてくれるのではないかと思います。

     

     

     

    しかしもちろん私は、どの領域についても、必要な時間と労力をかけて十分な探究を行えば、基本的な方向性は多くの人に賛同してもらえるはずだと考えているのであって、単なる私の意見ではなく、社会全体として目指すべき未来だと主張しているわけです。

     

     

     

    自分たちでつくり上げたお金のシステムに使われるのはこのあたりにして、世を経(おさ)め、民を済(すく)い、そして、本物の超越と本物の内在に満ちた世界を、この惑星に、そしてこの宇宙に、一緒に創り上げていきませんか?

     

     

     

    I have a dream... それが私のなのです。

     

    あなたはまだ、夢を――本物の夢を――見ることができますか?

     

     

     

     

     

    〔関連記事〕

    実存、愛、経済――人々を窒息させている3つの鎖

    経済、実存、愛、技術――人類の未来を歪めうる4つのボトルネック

     

     

    テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

    • 2018.01.10 Wednesday
    • 21:42

     

     

     

    単に統合的であれる――様々な分野の知を有機的な全体へと結集させられる――だけでなく、空なるスピリット(創造的深淵)とも親しくなってきたときに、触れておくとよいと思われる見方があります。

     

    それは「超越-内在パターン」、及び、それを1つの要素とする「発達の1234パターン」です。

     

    ヴィジョン・ロジックの臨界点に到達し、空なるスピリットにさえも少しずつ触れられるようになってきた頃というのは、確かに古い旅が終わりを迎える出口であるかもしれませんが、実はそれと同時に、新たな旅が始まる入り口でもあるのです。

     

    そしてその新たな旅こそ、「超越-内在パターンの旅」に他なりません。

     

     

     

    とはいえ、全ての人がこの旅を始める必要はないでしょうし、いわゆる「早期教育の弊害」を考慮すると、急いで始めるべきでもないと思いますが、

     

    少なくとも、やがて時が満ちたときのために、超越-内在パターン(と発達の1234パターン)を意識化しておくことは、非常に有益だと思われます。

     

     

     

    そこで、以下では、テリー・オファロンの論文「The Collapse of the Wilber Combs Matrix: The Interpenetration of the State and Structure Stages」(Terry O'fallon, 2010)を主に参照しながら、超越-内在パターン及び発達の1234パターンについて概観していきます。

     

     

     

     

    1. 基本となる枠組み 〜3つのフロアと対極性の統合〜

    まずは、論文中に登場する次の図をご覧ください(クリックで拡大できます)。

     

     

     

    かなりの"ビッグ・ピクチャー"ではありますが、よく見ると、中央の縦軸(やや斜めになっている縦軸)には、発達論に通じている人には馴染み深い語句が並んでいることが分かります。下から順に述べれば、Impulsive, Opportunist, Diplomat, Expert, Achiever, Individualist...などなど。

     

    さらに、3つか4つの段階ごとに「区切り線」が引かれていることが分かります。上下端のグループには3つの段階しか記述されていませんが、基本的には4つの段階が1つのグループ("フロア")を形成すると考えて問題ありません。

     

    各フロアに対応する発達段階はおおよそ次表のようになります。

     

     

     

    この表からも分かるように、実はConstruct-Awareの段階――冒頭で述べたような、統合的であるだけでなく、創造的深淵としての空性にも少しずつ触れられるようになってくる段階――とは、コーザル・フロアの入り口、より正確に言えば、コーザルフロアの第一歩目だったのです。

     

    そして、これから述べるように、コーザルフロアとは「超越-内在」という対極性を統合することが課題となるフロアなので、ここからまさに、「超越-内在の統合へ向けた旅」が新しく始まるのです。「発達の終わり」であるどころか、発達の始まりなのです!

     

     

     

    今、コーザルフロアでは「超越-内在」の統合が課題になると述べましたが、実はそれぞれのフロアにおいて、特定の対極性を統合することが課題になるとされます。

     

    具体的に言うと、サトルフロアであれば「内面-外面」、そしてコンクリートフロアでは「自己-他者」という対極性を統合することが課題になります。

     

    さらに、この「対極性の統合」は、4つの発達段階を経て実現されるものだといいます。例えばサトルフロアであれば、Expert, Achiever, Individualist, Strategistの4つの段階を通して、「内面と外面の統合」という仕事がようやく完成するわけです。

     

     

     

     

     

    2. 発達の1234パターン、そして超越-内在パターンとは何か

    ここで大事なのは、どのフロアであろうと、4つのそれぞれの段階で起きることには共通の性質が見受けられるということです。

     

    その共通の性質とは、

    1. 一方のみを見る(only one side)

    2. 両方を見て一方を選べる(either/or)

    3. 両方を見て両方を同時に選べる(both/and)

    4. 両方を1つの全体へとまとめ上げる(integration)

    の4つであり、これこそが先に「発達の1234パターン」と述べたものの正体に他なりません。

     

    (注:コンクリートフロアにおいて発達段階名を明示しなかったのは、当該段階付近における発達段階と1234パターンの対応づけについて、議論を要する点があると思われるからです)

     

     

     

    具体的に述べましょう。

     

    例えば、サトルフロア4段階目のStrategist(ティール)では、内面と外面の両方を1つの全体へとまとめ上げることができます。内面と外面が統合(integration)されるのです。

     

    一方、サトルフロア3段階目のIndividualist(グリーン)では、内面と外面の両方を見て両方を同時に選ぶことはできるのですが、1つの全体へまとめ上げられているとは言えない状態です。

     

    サトルフロア2段階目のAchiever(オレンジ)になると、内面と外面の両方を見て一方を選ぶことはできるものの、両方を同時に選ぶ――実際の行動や選択として両方を同時に尊重する――ことは難しくなります。

     

    サトルフロア1段階目のExpert(アンバー/オレンジ)になると、内面と外面の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

     

     

     

    そしてこれと同様のことは、コーザルフロアでも成り立ちます。

     

    コーザルフロア1段階目のConstruct-Awareでは、超越と内在の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

     

    一方、コーザルフロア2段階目のCatalystでは、超越と内在の両方を見て一方を選ぶことができます。もっとも、両方を同時に選ぶことはまだ困難です。

     

    けれども、3段階目のUnitiveになれば、超越と内在の両方を見て両方を同時に選ぶ――実際の行動や選択として両方を同時に尊重し始める――ようになるのです。

     

    さらに、4段階目のIlluminativeになれば、超越と内在の両方を1つの全体へとまとめ上げることができるといいます。

     

     

     

    1つ目のフロアには議論を要する点があると思われるので対応する発達段階名を全ては述べませんが、1234パターンとしては次のようになります。(私の意見については、機を改めて、別の記事にまとめたいと思います)

     

    コンクリートフロア4段階目のDiplomat(アンバー)では、自己と他者の両方を1つの全体へとまとめ上げることができます。

     

    一方、コンクリートフロア3段階目では、自己と他者の両方を見て両方を同時に選ぶことはできるものの、1つの全体へとまとめ上げているとまでは言えない状態です。

     

    コンクリートフロアの2段階目になると、自己と他者の両方を見て一方を選ぶことはできるものの、両方を同時に選ぶことはまだ困難です。

     

    コンクリートフロアの1段階目になると、自己と他者の一方のみを見ることが多く、両方を同時に見ることは簡単ではありません。

     

     

     

    このように、周期4のパターンがフロアごとに繰り返されていくわけですが、著者はさらに「前のフロアにおいて統合された全体が、次のフロアにおいて対極性の一方となる」というパターンも見受けられると述べています。

     

    具体的に言えば、コンクリートフロアにおいて統合された「自己-他者という全体」は、サトルフロアにおいて「外面」の極になり、あるいは同様に、サトルフロアにおいて統合された「内面-外面という全体」は、コーザルフロアにおいて「内在」の極になるのです。

     

    図で表せば以下のようになるでしょう。

     

     

     

    ただし、上位のフロアに移行することで以前の対極性が消失してしまうわけではないので、その点を踏まえて(図が巨大になることを厭わず)より正確な図を描けば、例えば次のようになるかもしれません。

     

     

    こう描いてみれば、サトルフロアの図とは、本質的にインテグラル理論の「四象限」そのものであり、サトルフロアの最終段階において四象限が"完成"するのだとも言えるでしょう。

     

     

     

     

    長くなりましたが、要するに、もしコーザルフロアに一歩足を踏み入れているという自覚があるならば、折にふれて、超越-内在の対極性に目を開くように心がけておくと、やがて時が満ちたときに、自然な変容が訪れやすくなるのではないかと思うのです――。

     

     

     

    (続く)

     

     

     

    〔関連記事〕

    テリー・オファロンの発達論 1. 超越-内在パターンを意識化する

    テリー・オファロンの発達論 2. コーザルフロアの諸段階を概観する

     

     

     

    人々の生活を変えられない思想

    • 2017.12.31 Sunday
    • 20:53

     

     

     

    発達理論やインテグラル理論の現状に対する不満や懸念は数多くありますが、個人的な実感として大切にしたいと思うのは、結局、一部の人たちが「上のほう」で何かやっているだけで、市井の生活においては全く何も変化が感じられないということです。


    もっとも、1つの理論や思想にそこまで求めるのは酷かもしれませんが、少なくともその程度のことさえも出来ないのなら、インテグラル思想を「現存する最も包括的で統合的な思想」などと吹聴するのは即刻やめていただきたい

     

     


    市井の生活を大きく――よくも悪くも――変えたのは、皮肉なことに、ポストモダン思想よりもヒューマンポテンシャルムーブメントよりも何よりも、インターネットの出現と浸透であり、政治的失策による長期デフレ(そして拝金主義グローバリズムによる移民問題)でしょう。


    このまま進めば、次に大衆の生活を大きく変えるのも、インテグラル思想や発達理論では決してなく、技術の進展であり、さらなる経済の変化なのではないかと思います。(あるいは、軍事的ないし地球環境的な破滅)

     

     

    (写真はハンブルグでのG20サミット抗議デモの様子, 2017年7月)

     

     

    インテグラル思想がその役割を担おうが担うまいが、

     

    カネの論理とテクノロジーの論理ばかりが我々の未来を主導していくという構造そのものに対して、異議を唱え、具体的な改革案を提示していける思想

     

    が必要であると、切に思うのです。