発達論とインテグラル理論の普及状況をめぐる危惧

  • 2016.08.08 Monday
  • 23:20

 

 

当ブログの主要テーマである「発達論」と「インテグラル理論」。これらの理論は、様々な異才たちの努力もあって、近年、日本語圏にもますます普及しつつある。

 

試しに、「インテグラル理論」「インテグラル思想」「意識の発達理論」「ケン・ウィルバー」などのキーワードでGoogle検索をしてみれば、様々な情報源にたどり着くことができるだろう。

 


けれども、発達論とインテグラル理論の普及状況に関して、私には幾つかの不満と危惧がある。

 

1.現代社会の集合的な課題に対する問題意識が概して希薄、あるいは総花的(そうばなてき)であり、そうした社会全体の課題に対して具体的な解決策を提言していくことに消極的である。

 

2.精神性/霊性(スピリチュアリティ)に関する問題圏と真正面から向き合うことが回避されているか、よくて「後回し」にされている。とくに、個人の実践の問題だけに矮小化されてしまうことが多い。

 

3.1と2の壁を超えている人でも、大抵、発達論とインテグラル理論を表層的にしか理解していない言い換えれば、そうした高度なフレームワークをその深みのままに咀嚼することができる認知的な複雑性と内省的な修練を欠いている。

 


以上は日本語圏の状況を主に意識して書いた事柄であるが、形や倍率を変えれば、英語圏にも当てはまる問題だと思われる。

 

果たして、英語圏にも広がる問題に対して、言語的な意味で「受け身」になりやすい日本語圏の中で抵抗することがどこまで可能なのか、それは分からない。けれども、とにかく、試みる他はないと思う。

 

 

 

中でも、2の問題が最も重大であると私は考えている。それはなぜか。少し話が脱線するが、理由を簡単に述べておこう。インテグラル理論(の創始者であるウィルバーの思想)では、近代化の問題を、次のように考える。

 

近代社会が様々な悲劇を引き起こすことになった根源的な原因は、近代化のなかで、人々が精神性/霊性(スピリチュアリティ)に関する問題圏と向き合うことを回避してしまったことにある

 

言い換えれば、16世紀から19世紀にかけて、道徳や政治の在り方、真理の探究方法、生産や輸送の技術といったものは、近代の様式へと「更新」されたのだが、それに対して、精神性/霊性に関する問題圏、すなわち、超越的なものとの関わり方や、死や不死の問題への知的態度、精神的な修養の道、霊的な合一体験の解釈、身体や自然のエネルギーに関する知恵、宗教的な宇宙観といったものが、新たな姿へと「更新」されることはなかった――このことこそが、近代のパラドクスを解き明かすための「失われたパズルのピース」だというのである。

 

近代化の始まり、先駆的な人々の心は希望に満ちていた。今、この「インテグラル化」の始まりにあって、私たちは同じように、未来に希望を見出しているかもしれない。

 

しかし、ちょっと待ってほしい。その希望には、どこか窮屈で、逃避的で、欺瞞的で、強迫症的な――あるいは分裂症的な――ところはないだろうか。身体と心を研ぎ澄ませ、静寂の果てに思いを致せば、その強情な希望の後ろに灯る、か弱い光が、だんたん明晰な声となって、訴えかけてこないだろうか。

 

今すぐに、今すぐに、精神性/霊性(スピリチュアリティ)に関する問題圏と、真正面から向き合おう。様々な理由をつけて、それを回避したり、「後回し」にしたりすることは、近代の悲劇を再来させることに他ならないと、私は思う。

 

 

 

閑話休題。

 

上記の3つの点が「発達論とインテグラル理論の普及状況」対する私の不満と危惧であり、これらの壁を3つともすべて超えた人が、もっともっと必要である。

 

 


惜しむらくは、こうした論点について深められる文献として、比較的広い読者層に自信をもって推薦しうる書籍がないということだ。この「情報源の不足」の問題については、機を改めて述べたいと思う。

 

ただ、そうした英語文献を、私自身が邦訳する計画を進めていることは、ここで述べておきたい。